2020年02月22日
『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』

新潮元編集長の前田速夫さんと豊橋駅前で会食し、早一年近くなる。
そのときの投稿で、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』の増補新版のあとがき(泰澄、真私は逆に澄、それから)に私の名が載っている旨を述べた。
具体的には、以下のとおりだ(同書285・286頁)。
加えて、『北の白山信仰』を刊行後、蝦夷地での菅江真澄の足取りを追った際、うかつにも「えぞのてぶり」寛政元年六月二十四日中の左の記事を見落としていたことも指摘された。
小雨きのふのごとにふれば、さしも出たゝず。磯やあkたの長とひ来て、この頃三河の国宝飯郡牛窪村のすぎゃう(修行)者、名は誰れとやらん、としはよそまり(四十余)の人の、わたびうどのことならん、いづこゝとあとのみしたひ来りしかど、めぐりもあはでなど話るは、上の国の寺に、それがしるしの札のこしてける、喜八とかいふにてやあらむ、あがくにの名さへ聞さへゆしきに、まいて、わが親ますかたのちかどなりの里なるをと、いよゝ恋しう、ふたゝび袖はぬれたり。
かくばかりたもとに雨やふるさとの人はいづこをぬれたどるらん
菅江真澄を慕って蝦夷地まで彼を追って来た三河国牛久保村の修行者喜八とは、当地の伊東修一の調査によると、帰郷後の寛政二年八月から、毎年時を定め、「白山観世音菩薩」の軸物を掲げて祀り、参拝の人々に施食接待をした河合喜八に相違ないとのこと(伊奈繁弌『菅江真澄考 謎多き人物』)で、してみるとわたしが唱えた真澄隠れ白山信徒説は、いっそう補強されることになる。
このことは、大著『穂国幻史考』(二〇〇七、常左府文庫)、『牛窪考』(近くオンデマンド版・電子版が完成予定)の著者で窮地の柴田晴廣氏のご教示によるが、私は以前、氏の案内で菟足神社や付近の白山神社を訪ね、奇祭「うなごうじ祭り」を見物している。氏が弾左衛門の出自を、同地の領主牧野氏との関係で考えているのも、見逃しにできない。
『牛窪考(増補改訂版)』拾遺五補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を称するのか」の一つ目の見出し「非農耕民と秦氏――東三河を中心に」の三つ目の小見出しのタイトルは、「 牧野氏と鶴姫伝説――信長の世に廃寺となった豐川村東光寺」だ。
「牧野氏と鶴姫伝説」の「鶴姫伝説」は、前田速夫さんの『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』で、夏山茂著『部落に於ける口碑伝説記録の研究』を引用したもので、上州大胡藩主の牧野忠成(1581~1655)の娘・鶴姫が質悪しき病気に罹患し、城外に別居し、弾右衛門、弾兵衛の二人の家来を付け、弾右衛門は加賀白山に参詣し、白山権現を勧請し、病気平癒を祈願したところ、鶴姫は快癒したという伝説だ。
前田氏は「付き添った家来の名を弾右衛門、弾兵衛としているのは、関東の被差別部落の元締、浅草の弾左衛門にあやかったのだろう」との見解を述べているが、私は逆にこの伝説から関八州穢多頭は彈左衞門の名が生まれたと考えている。
「牧野氏と鶴姫伝説」のサブタイトルは、「信長の世に廃寺となった豐川村東光寺」である。豐川天王社の「笹踊歌」には、、「天王の 奥の院の東光寺は 福仏でまします」との一節がある。
この東光寺は、現在の豊川市東光町三丁目の東光公園にあったといい、舊豐川村には、この東光寺のほか、現在の豊川商工会議所の北にあった豐川山西岸寺、西光寺(豊川市豊川町宇通)が、同じころ廃寺になったといわれる。
また妙嚴寺も豊川商工会議所辺りにあったといわれる。
吉田や牛久保は元龜年間(1570~1573)、武田軍により焼き討ちに遭っている。このとき現在の豊川市立牛久保保育園付近にあった聖圓寺が廃寺になっている。東光寺も武田軍の焼き討ちによって廃寺になったのではないかと私は考える。
柳田國男著『所謂特殊部落ノ種類』は、「關東地方ハ穢多部落ノ氏神ハ例ノ淺草新谷町ヲ始トシテ多クハ白山神社ヲ祀レリ」(『定本柳田國男集27』三八一頁)と述べ、菊池山哉(1890~1966)は、「その理由は別所と特殊部落だけが、白山権現を鎮守とし東光寺なる薬師堂があるからです」(批評社刊『特殊部落の研究』)と述べている。
ほとんど知られていないが、舊豐川村には、白山権現が鎮座する(豊川市西豊町一丁目)。
舊豐川村は被差別部落の要件を満たしているわけだ。
先に豐川天王社の「笹踊歌」の一節を紹介したが、その「笹踊歌」には、「天王は何神 サア薬師の十二神と 現われ給う御神」戸の一節もある。
東光寺の寺號は、藥師瑠璃光如來が坐す東方浄瑠璃世界に基づくものであり、本尊を薬師如来とし、薬師如来が藥壺を持つことから、その山號は醫王山とすることが多い。
また一五世紀初頭に成立した『神道集』は、「祇園社の本地佛は、男体(牛頭天王)を藥師如來、女体(牛頭天王の后の頗梨采女)を十一面觀音」とする。
「天王の 奥の院の東光寺」もこの「神道集」に基づくもので、さらに白山権現の本地は祇園社の女体の本地と同じく十一面観音である。
つまり、被差別部落の信仰の本質は、祇園信仰にあり、祇園の総本社・八坂感神院(京都市東山区祇園町北側)は、白河の東光寺から遷座したといわれる。
感神院の門前には犬神人(つるめそ)がいたが、林屋辰三郎(1914~1998)著『歌舞伎以前』は、
この時期に院政という政権に大きな壓力となったいわゆる僧兵の武器は、いかにして調達せられたのであろうか。それはやはり廢絶した造兵司の工房ではたらいていた雜工戸、すなわち鍛戸、甲作、靱作、弓削、矢作、鞆張、羽結、桙削の八種にわかれているが、そのような雜戸民や、官戸、官奴婢が、社寺などの莊園領主に隸屬して、武器生産にたずさわり領主の需要に應じたものと考えられる。たとえばその一部の人々は、山門の末寺である感神院すなわち祇園社に隸屬し、境内ちかくに弓矢町をつくっていたが、山法師の場合にはこの人々から、その武器の提供をうけたものであろう。したがって山門蜂起にあたって、祇園社はつねに山門の前線基地のような役割を果たしていたのである。しかして平時の彼らは、その生産の餘暇、弓弦の餘剩生産品が市中にも需要があるところから、ツルメセという呼聲と共に之をうりさばいたのであって、これが祇園の犬(つ)神人(るめそ)にほかならない。
と述べている(岩波新書版24・25頁)。
廃寺になった東光寺や白山権現を信仰した者は、豐川村の住人であり、その武器を作る生業から武田に焼き討ちにされ、住居を失った住人は、牧野氏に随い武田との最前線・牧野城(諏訪原城)に向かい、さらには関東に移って彈左衞門家になったのではないかというのが、前田さんが「見逃しにできない」という「牧野氏との関係で」の「弾左衛門の出自」の概要である。
なお妙嚴寺(その鎮守が豊川稲荷)が矢作の地に建つのは、彈左衞門家の故地の痕跡を消すためと思われるし、豐川村が大岡の知行地に加えられたのも同様の理由からだろう。
そもそも妙嚴寺の江戸時代の寺格は高くない。本寺の廣澤山普濟寺(浜松市中区広沢1丁目)が、松鷲山花井寺(豊川市花井町)や大寶山西明寺(豊川市八幡町寺前)と同格。
つまり妙嚴寺は、豊川市内の多くの曹洞宗と同格ということになる。
その寺格の低い妙嚴寺の鎮守・豊川稲荷が全国区となったのは、彈左衞門家の故地の痕跡消去の幕府からの論功行賞だろう。
さらに浄土宗を宗旨とする忠相が、禅僧・哲翁萬牛に帰依したのも、おかしなものだ。同じ曹洞宗の僧なら曹洞宗中興の祖といわれる面山瑞方(1683~1769)やその師・卍山道白(1636~1715)がいるにもかかわらず、無名の哲翁萬牛を選ぶ理由がわからないからだ。
こうしたことを丁寧に論証したのが、拾遺五補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を称するのか」の最初の見出し「非農耕民と秦氏――東三河を中心に」なのだ。
その最後の締めに「牛頭天王の本地と播磨、そして秦氏――祇園感神院及『野馬臺詩』が記す日本の國姓」の理由もわかるだろう。
とはいっても、目次を見れば、「牛頭天王の本地と播磨、そして秦氏――祇園感神院及『野馬臺詩』が記す日本の國姓」は、132頁もの紙面を費やしている。
何をそれほど書くことがあるのかと、思われる方が普通だろう。
『穂国幻史考』の読者ならサブタイトルの「祇園感神院及『野馬臺詩』が記す日本の國姓」から、『穂国幻史考』第一話「『記紀』の成立と封印された穂国の実像」の第四章「虚構の万世一系と持統の生い立ち」の第一節「易姓革命から逃れるために姓を棄てた持統」を踏まえた内容が書かれていると想像するだろう。
ところが、この「易姓革命から逃れるために姓を棄てた持統」にしても、割いた紙面は37頁。
そのほかの100頁近くは何を書いたのかと、新たな疑問が湧いて来るだろう。
何を書いたかを簡単に記せば、『野馬臺詩』を解読したのが、吉備眞備(695~775)であり、明石に垂迹した牛頭天王を廣峯に勧請したのも吉備眞備だ。
八坂感神院もこの廣峯の分靈だ(感神院の後身・八坂神社は否定しているが)。
女性宮家創設に反対の立場をとり、旧宮家の皇籍復帰を望む自称保守派といわれる集団がいるが、陽成(869~949)の譲位で好意を巡る論争が起きたとき、手を挙げた源融(822~895)に、自宅を寄進し、感神院の前身・觀慶寺を建立した藤原基經(836~891)が待ったをかけた『大鏡』の記述を読んだことがないのだろうか。
読んだこともなく、保守派を自称しているのも厚かましい。もっとも読んでおれば、女性宮家創設も旧宮家の皇籍復帰も天皇という制度からすれば、目くそ鼻くそということになる。
そもそも保守を掲げるなら、諸行無常がこのクニの価値観の一つだ。森羅万象常に変化するのがこの世の姿なのだ。
源融も前例があって手を挙げたのだろう。『大鏡』より成立は後になるが、『水鏡』に吉備真備が、穪德(718~770)の死後の皇位継承争いの際、文室淨三(693~770)及び文室大市(704~780)を推したとの記述がある。
謡曲『殺生石』の主人公・玉藻前。九尾の狐の化身を連れて来たのも眞備だといわれる。
廣峯に牛頭天王を勧請した眞備は、「万世一系」という虚構を揺るがしかねないエピソードに彩られた人物なのだ。
ちなみに融を制した基經であったが、その直後に、宇多(867~931)が即位する。ただ宇多は臣籍降下した後、皇籍復帰している。ところが、その子の醍醐は、父の皇籍復帰に伴い皇籍復帰し、即位する。その醍醐は地獄に落ちたとされるのである。
明治天皇の玄孫を称する(男系でいえば、東武皇帝公現(1847~1895)の玄孫)竹田某は、こういったことを知っていてテレビ塔でいろいろ発言しているのだろうか。私は首を傾げる。
白山権現と東光寺のセットの本質は祇園信仰にあると思われ、その本地は薬師如来と十一面観音になる。
十一面観音は変化観音の一つであるが、観音霊場である補陀洛(二荒)に自身を薬師如来の化身と祀らせた東照神君にも当然目が行こう。
この日光のいう宗教施設も面白いものだ。輪王寺宮もしたたかなもので、大猷院の構造を観察するとそのしたたかさがわかる。
さらに馬琴が天下一と称賛した吉田の花火の城内天王。かつての新錢町に鎮座する白山権現社。そして牧野成時(?~1506)が入道ヶ淵に築城する以前に、その地にいたといわれる渡邊氏や対岸の金色嶋。
渡邊氏とともに、現在の馬見塚に遷った正行山専願寺と、そこで行われる大施餓鬼と、書くことはいくらでもあるのだ。
たとえば、専願寺を介して、入道ヶ淵がどういった地かの手掛かりとなるし、専願寺の大施餓鬼は、なぜに施餓鬼といえば専願寺なのか、なぜに7月の末日に行われたか、専願寺の大施餓鬼に行けば、故人と似た人と会えるといった伝承が生まれたのか、施餓鬼の本質を知るには、うってつけのものだからだ。それとともに現在いろいろな寺院で施餓鬼(禅宗での名称は施食會)が行われているが、施餓鬼とはなにかを知っているのか疑いたくなる。
※ 掲載の写真は、前田速夫さんから頂いた『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』の増補新版
中央の蔵書印の文字は「常寒文庫」。常寒は、『牛窪考(増補改訂版)』の目次を見ればわかるように、牛久保の古名で常荒とも表記され、常左府と表記されることもある。
『穂国幻史考』の発行所の「常左府文庫」の「常左府」もこれにちなむものであるし、このウェブログのURLで使っている〝tokosabu〟も「トコサブ」からだ。
なおホームページのURLのwww.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/の〝atabis〟は〝sibata〟の綴りを逆にしたものだ。
Posted by 柴田晴廣 at 00:09│Comments(0)
│牛窪考(増補版)