2020年12月24日

クリスマス

 今日はクリスマスイブ。
 クリスマスは、真偽はともかく、キリストの生誕に基づくものだ。
 はっきりいって、唯一神教は私の信条には合わない。
 私の信条は八百萬の神祭りに基づく多様性にあるからだ。
 ゆえに、記紀と両輪をなす中臣神道は私の信条に合わず、漢字で書かれた記紀から宣長のいう漢心を除けば何も残らない。
 さらに唯一神教の概念を導入した篤胤が唱えた平田學派の影響を受けた国家神道やその後継である神社本庁による神道も私の信条とは乖離したものだ。
 簡単にいえば、神佛習合こそが私の信条に近いものだ。
 とはいえ、行事としてクリスマスを楽しむつもりはある。要はクリスマスにかこつけて、一盃呑もうという魂胆だ。
 今晩は、ローストポークでも買って、安いワインで一盃と考えている。唐揚げの好きな母には揚げたての唐揚げを。一応、YouTubeでクリスマスソングをチョイスし、ノートパソコンで流しながら。

 さて、西暦はキリスト教の立場でいえば、キリストの生誕を紀元としたものだ。
 だから、イスラム社会では、預言者ムハンマドがマッカからマディーナへ聖遷(ヒジュラ)したユリウス暦622年を「ヒジュラの年」と定めヒジュラ暦元年とする暦法が用いられる。
 上記のように、唯一神教は私の信条には合わないため、西暦もイスラム歴も使いたくはない。
 もちろん、時間は王が支配するとの中国の思想に基づいた元号も主権在民のクニにはふさわしいものではない。ちなみに中華人民共和国では、この発想から北京時間のみが使用されている。西のチベット自治区等の未明の事件でも、夜が明らかに明けた現地時間(北京時間)で報道される、中華民國も、臺北時間でなく、國民黨政府が置かれた南京時間を使用している。
 私は主権在民を謳う現行憲法施行の年を日本国元年とする紀年が望ましいと考えている。
 ゆえに、『穂国幻史考』以来、拙著のあとがきの末尾は「日本国〇〇年〇月吉日  穗國宮島鄕常左府にて」と記している(常左府(とこさぶ)は牛久保の古名)。
 上述のように、キリスト教社会で使われている西暦はキリストの生誕を紀年にしている。
 ふがいないのは、わが国宗教界だ。
 なぜ佛教界は、佛陀の生誕あるいは宗祖の生誕、寺の創建を以て紀年としないのだろう。せめて御朱印ぐらい上記の紀年を以て書いてほしいものだ。その程度の気概は最低見せて欲しいものだが。
 また國津神を祭神とする神社の御朱印で元号を使うのは、祭神の冒涜であろう。
 特に國譲りで、國を譲り、幽界に去った大國主を祭神とする杵築大社が元号を使うなどもってのほかだ。
 もっとも社家の千家家は、關が原の戰で宇喜多秀家が西軍を裏切ったように、國譲りで裏切り行為を行ったのであろう。ゆえに皇族と平気で結婚するのだ。
 杵築大社が長く大國主を祭神としていなかったのも、千家家の裏切りと関係があるのだろう。大國主を祭神とする杵築大社の社家としてはおおよそふさわしい家とは言えないと私は思う。
 國津神を祭神とする社は、祭神への冒涜になる元号の使用をやめ、神社本庁から離脱すべきだ。これが本来の祭祀の姿だ。
 少なくとも、御朱印には干支で年を表してほしい。そうすれば、丑年の天滿宮の御朱印(天滿天神の使いは牛)、申年の山王權現の御朱印(山王神の使いは猿)を授けてもらうという楽しみも増えよう。
 以上の内容の詳述は『牛窪考(増補改訂版)』に記してある。


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Posted by 柴田晴廣 at 12:34│Comments(0)牛窪考(増補版)
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