2022年01月09日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明6(補遺一3)

 柴田踏葉氏は、おそらく『三河うながうじ祭』を執筆する以前から、東三河平野部には、「若葉祭」のほかにも、地面に寢轉ぶ集團がいる祭禮があることを知っていた。ゆえにヤンヨーガミの寢轉ぶ姿をもってして、「うなごうじ祭」の俗稱が附いたとは思っていなかっただろう。
 ではなにゆえ、地元の柴田踏葉氏が、「俗にいふ此のうながうじ祭は極めて珍奇なもので全國にもあまり類例の尠ない祭である」、「然し此の祭の起因由來は今日何物も考證するものが無いので具體的に一々説明することは不可能である幸ひ諒せられよ」と、「うなごうじー蛆虫説」の斷定を避けているのにもかかわらず、『鄕土趣味』を主宰する田中緑紅は、自身が著した『うながうじ祭雜話』で、「うながうじは俗に吾々の云ふ雪隱虫の蛆の事を云つたもので、このやんよう神の動作が蛆の樣にはこばないぐづゝしたものであるのでこの若葉祭をうながうじ祭なんかと云つたものなのである又一説に、今迄いつもこのお祭に關した、豫告の樣なものを便所の戸に貼つたものだからこの名が生まれたともきいてゐる」と斷定してしまったのであろうか。
 その答えが、田中緑紅が「若葉祭」見學に訪れる三年前の大正一〇年の「若葉祭」にある。
 この年の「若葉祭」では、「笹踊」擔當の寺町と、そのほかの上三町、下中町、裏町が揉め、解決に一年を要した。それだけの長い時間をかけ一應の解決を見たものの、寺町が完全に反省していたとは思えない。
 たとえば田中緑紅は、その著『うながうじ祭雜話』で、「特にこの連中の前を、又其中を横切るものがあれば誰かに關はらず半死半生に會はし衣服等裂けてしまうと云ふ事である、それ程この祭については權威をもつてゐる、たゞ仕末の惡いのはこの組の子供達で、やんよう神の連中より一丁程も先きに歩いて通行迄禁止させやうとしてゐる、町の氏子の人々は昔からの習慣を知つてゐるが旅の者には頗る迷惑な事も出來よう」と記していることからも、それがわかる。
 こうした寺町の態度から、「あいつら蛆蟲だから」といった言説を寺町以外の牛久保の住人が口にし、それが田中緑紅の耳に入ったことは大いにあり得ることだ。
 それがきっかけになり、田中緑紅の『うながうじ祭雜話』を介し、「うなごうじ=蛆蟲説」が人口に膾炙したと考えられるのである。
 ではなぜに、「笹踊」を擔當する寺町と、その他の町内が揉めたのだろう。實は「笹踊」を擔當する町内と、そうでない町内が揉めたのは、牛久保だけではない。
 新城でも幕末に、「笹踊」を擔當する橋向と、山車や底拔屋臺を所有する本町が揉めている。
 山車や屋臺を持つ町内と、それを持たず、「笹踊」を擔當する町内の諍い。いってしまえば、經濟格差により、祭禮にかこつけて、憂さ晴らしをしたわけだが、それを祭禮組織の主體たる若連、祭禮の進行を指揮する年行司の役割の變容から、説明したのが、三つ目の見出し「大正一〇年の「若葉祭」と祭禮組織の變容」の項である。
 神社本庁庁規は、氏子総代について「神社の運営について、役員を助け、宮司に協力する者」と規定する。神道政治連盟の活動から明らかなように傳統文化と地域の民俗を否定する神社本庁は、氏子総代を介し、祭禮組織の洗脳を進めている。奇しくも二〇二〇年二月末の"SARS-CoV-2"の感染拡大により、祭禮についての意識の変容は顕在化した。たとえば、疫病退散を祈る祇園會に起源を持つ祭禮の多くも中止になっている。
 祭禮以上に変容が顕在化したのが、葬儀だろう。
「村八分」という言葉がある。「村八分」の殘る二分は、火事のときと、葬儀のときだ。つまり、類燒を防ぐのと、遺體の放置を防ぐために二分を殘したのだ。ところが、昨今の家族葬。これなど自ら村九分を望んでいることになる。
 共同幻想より、遺族の故人への対幻想が、優先したということである。これも"SARS-CoV-2"の感染拡大により、顕在化したことだが、祭禮組織の變容は、神佛分離、英米との戰爭で、徴兵により若者組が崩壞したことも大きい。直ぐに顕在化しなかっただけのことだ。これが"SARS-CoV-2"感染拡大による祭禮の中止や縮小により浮き彫りになって来た。
 自己幻想、対幻想、共同幻想については、すでに本話の「はしがき」で説明したように、吉本隆明(一九二四~二〇一二)が、一九六八年に刊行した『共同幻想論』で、国家の成立の説明に使った用語であるが、人の営みである人類学の範疇に含まれる民俗に当てはめることも有効である。
 人の営みを研究の対象とする民俗學であるが、人の営みには、当然経済活動も含まれる。ところが、柳田民俗學は、經世濟民の視点を全く欠く。
 また人生五十年の時代と異なり、平均寿命が延びた今日においては、通過儀禮を祝う還暦、古希、喜壽、傘壽は当たり前、米壽、卒壽、白壽も珍しいものではない。いまに二度目の還暦を祝う者も現れよう。ところが、こうした今日的な冠婚葬祭について語った民俗調査を私は知らない。
 さらに、柳田が、昭和一六(一九四一)年、東京帝國大學の理工系の學生を中心とした聽衆の前で語った『日本の祭』は、多神教のわが國で、マツリとサイレイの別を神事と佛事に分けるなど、全くの思い附きの戲言に過ぎない。
 文獻に殘らない歴史の一つの民俗、特に祭禮の變容の考察について、柳田民俗學は全く役に立たないのである。
 さらに人の営みには、自然科学からのアプローチ、人文科学からのアプローチの両者とも必要だが、いまだに理系、文系という無意味な分類がまかり通っている。
 加えて、このクニの学制には、哲学科はあっても、哲学部はない。そして哲学科は文学部に置かれている。史学科も同様だ。
 なぜこうなったのか、わが國の學制の確立に大きく關わったお雇い外国人に歴史を語ったのは、國學者であった。彼らが語った歴史は、史實ではなく、「記紀」という創作物語=文學であった。
 そして、こうした国學者が信奉した神道には、衆生濟度といった哲學もない。ゆえに文學部の下に史學科や哲學科が置かれたのだ。
 もっとも、国學者が信奉した神道に哲學的要素がないだけで、道元(一二〇〇~一二五三)著『正法眼藏』卷二〇「有時(うじ)」、卷二九「山水經」といった時間空間論を記した優れた哲學書がなかったわけではない。
 また自身が興味のある分野でなく、補助金の出易い分野の研究を選択するというこのクニの研究者の態度も考えものだ。自身が興味のある分野であれば、楽しく習う楽習だが、興味のない分野は、勉強、すなわち、強いて勉める→嫌々やる→身に付かんのだ。
 大体、補助金を頼りにすれば、忖度が生まれ、学問の自由(日本国憲法二三条)が担保出来ない。
 さらに基礎的研究には、補助金が必要との声も聞くが、知的財産権法の無理解も甚だしい。基本発明から改良発明が生まれ、改良発明を実施すれば、基本発明を利用することになる。ゆえに、改良発明を実施すれば、基本発明の発明者の発明を実施することになり、基本発明の発明者へ実施料(ロイヤリティ)が支払われることになる。
 そもそも実施料収入に繋がらないような研究は有用性に欠ける。そんなものに公的補助をする必要はない。
 公的補助に頼るより、 弁理士に頼まず、特許明細書も自身で作成し、出願した、Mr半導体・西澤潤一(一九二六~二〇一八)東北大学総長の姿勢を見習うべきである。
 加えて置けば、經世濟民、衆生濟度という物差しで、學問や藝術を考察することは重要なことだ。
 三つ目の見出し「大正一〇年の「若葉祭」と祭禮組織の變容」では、大正一〇年の「若葉祭」の祭禮紛擾事件の田中緑紅に輿えた影響とともに、祭禮組織の變容の考察に有効な手段・方法についても言及した。



同じカテゴリー(牛窪考(増補版))の記事画像
ひな祭り――剥き身の押し寿司
煮するめ
近代オリンピックとは何者か?
花の舞と湯豆腐で
海人族の古代史――非常民の民俗学への懸け橋
ちゃんこ鍋と……その薀蓄(笑)
同じカテゴリー(牛窪考(増補版))の記事
 神事藝能と古典藝能 (2023-06-13 08:34)
 日本語について (2023-06-07 16:57)
 萬勝號の遠州袖志ヶ浦漂着と梅が枝節 (2023-05-27 10:49)
 祭禮ないし祭禮組織の變容 (2023-05-16 14:15)
 親鸞、日蓮、空海と明星のスタンス (2023-04-26 16:31)
 『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明25(あとがき~) (2022-03-18 07:12)

Posted by 柴田晴廣 at 08:29│Comments(0)牛窪考(増補版)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。