2022年01月10日
『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明7(補遺一4)
既述のように、『仙境異聞』の「うなこうじ」に言及した記述では、古歌が缺落している。羽田野が收集し、貸出していた羽田八幡宮文庫にも、『仙境異聞』は所藏されているが、羽田八幡宮文庫に所藏されていた『仙境異聞』の「うなこうじ」の記述箇所でも古歌は缺落している。
この缺落した古歌は何であったか。羽田野は、缺落した古歌がどのようなものであるのか知っていたのか。四つ目の見出し「「うなごうじ祭」という通稱についての假説」の項では、まずこれを檢證した。
結論からいえば、缺落した古歌は、「ちはやふる卯月八日は吉日(きちにち)よ 紙下け蟲を成敗そする」との歌と考えられる。
羽田野敬雄は、羽田野家に養子に入るまでは、寶飯郡西方村(豊川市御津町西方)の山本家で過ごしており、父の山本兵三郎茂義は、俳諧を嗜み、野溜めがあったであろう田の中を轉げまわる祭禮を催す、隣村の御馬(豊川市御津町御馬)の醫師で、俳人でもあった、南條春(しゅん)林(りん)(一七五一~一八一九)の許に手習いに通っていた。そうした羽田野であれば、『仙境異聞』で古歌が缺落していても、缺落した古歌が、「紙下け蟲」を詠んだ歌であろうことは、容易に推測で來たであろう、というより、四月八日の釋迦聖誕祭である灌佛(かんぶつ)會(え)で頂いた甘茶で磨った墨で、この歌を認め、厠の戸に貼り、蟲封じとした風習は、當時一般的であったから、羽田野でなくとも、缺落した古歌がどんな歌であったかは察しがついただろう。
「若葉祭」は、灌佛會と日を同じくする、卯月八日を本祭とした。『仙境異聞』の「「うなこうじ」の記述と、この「紙下け蟲」を詠んだ歌から、卯月八日を本祭とする「若葉祭」の俗稱「うなごうじ」が關係するかもしれない、との思いが芽生えたのだろう。
もっとも、篤胤は、寅吉の口を借りて「舌の腫れたるには うなこうじの黒焼きを足の裏に貼りて よく癒るものなり」と、應えているが、これは篤胤のオリジナルではない。水戸光圀が元祿五(一六九三)年に侍醫・穗積甫庵(生没年不詳)に命じて書かせた『救民妙藥』に、「小(せう)兒(に)舌胎(ぜつたい)わらんべ したにでき物で したしろくなるを云(中略)尾(お)長蛆陰干(ながうじかげぼし) 粉(こ)ニして そのこにて あしのひらにはりよし」とある。『救民妙藥』のタイトルからもわかるように、高価な藥が買えない庶民のために、簡單に手に入る野草などを症状にあわせ、その處方をまとめたものだ。時代劇で、携帯用の藥容れの印籠が水戸黄門のトレードマークとなっているのも、こんなところにあるのだろう。
『鄕土趣味』を主宰した田中緑紅は、京都の代々醫者の家に生まれた。田中緑紅は、『救民妙藥』の記述から、地元の柴田踏葉氏が斷定を避けているにもかかわらず、「うながうじは俗に吾々の云ふ雪隱虫の蛆の事を云つたもので、このやんよう神の動作が蛆の樣にはこばないぐづゝしたものであるのでこの若葉祭をうながうじ祭なんかと云つたものなのである」とし、續けて、「紙下け蟲」を詠んだ歌から、「又一説に、今迄いつもこのお祭に關した、豫告の樣なものを便所の戸に貼つたものだからこの名が生まれたともきいてゐる」と、斷定したのであろう。
ところで、『牛窪密談記』は、「若葉祭」の起源について、「牧野古白入道 或歳四月八日此若宮ヘ參詣アリシニ 其ノ主今川氏ノ許ヨリ使節到來シテ曰 當國渥美郡馬見塚村ノ邊ニテ要害ノ地理ヲ見立 一城ヲ築クヘシト 命令承リテ大ニ悦ヒ 家門ノ譽レ何事カ是ニ如カン 殊ニ當社ヘ參詣ノ折柄此吉事ヲ聞クコト 偏ニ當宮ノ御惠ナリト 取リアヘス庭前ノ柏葉ニテ神酒ヲ獻シ 其身モ快ク三獻ヲ傾ケヌ 猶喜ビノ餘リ 家紋ノ菊桐ヲ柏葉ニ替ヘヌルハ此所以ナリト 古老ノ云傳ヘナリ カクテ年々宗祇 宗長ノ兩子發句ヲ詠シテ若葉ニ結ヒ神前ニ供ヘ奉リ 牧野氏武運長久ノ祈念アリシトソ 是ヲ若葉ノ祭ト號ス」と記す。「神前ニ供ヘ奉リ」た後、發句を結んだ若葉は、言擧(ことあげ)の儀式として焚き上げられたのだろう。一色城の東は、灰塚野と呼ばれた。焚き上げられ、灰となった發句を結んだ若葉は、この灰塚野に流されたのだろう。
既述のように、牧野氏は、繩文の言語を理解していた。アイヌ語で祭祀の場でもあった灰捨場を"una・kuta・usi"という。この"una・kuta・usi"が訛化して、「ウナゴウジ」となり、「若葉祭」を「ウナゴウジ祭」と呼ぶようになったのではないかという假説を提示した。
この缺落した古歌は何であったか。羽田野は、缺落した古歌がどのようなものであるのか知っていたのか。四つ目の見出し「「うなごうじ祭」という通稱についての假説」の項では、まずこれを檢證した。
結論からいえば、缺落した古歌は、「ちはやふる卯月八日は吉日(きちにち)よ 紙下け蟲を成敗そする」との歌と考えられる。
羽田野敬雄は、羽田野家に養子に入るまでは、寶飯郡西方村(豊川市御津町西方)の山本家で過ごしており、父の山本兵三郎茂義は、俳諧を嗜み、野溜めがあったであろう田の中を轉げまわる祭禮を催す、隣村の御馬(豊川市御津町御馬)の醫師で、俳人でもあった、南條春(しゅん)林(りん)(一七五一~一八一九)の許に手習いに通っていた。そうした羽田野であれば、『仙境異聞』で古歌が缺落していても、缺落した古歌が、「紙下け蟲」を詠んだ歌であろうことは、容易に推測で來たであろう、というより、四月八日の釋迦聖誕祭である灌佛(かんぶつ)會(え)で頂いた甘茶で磨った墨で、この歌を認め、厠の戸に貼り、蟲封じとした風習は、當時一般的であったから、羽田野でなくとも、缺落した古歌がどんな歌であったかは察しがついただろう。
「若葉祭」は、灌佛會と日を同じくする、卯月八日を本祭とした。『仙境異聞』の「「うなこうじ」の記述と、この「紙下け蟲」を詠んだ歌から、卯月八日を本祭とする「若葉祭」の俗稱「うなごうじ」が關係するかもしれない、との思いが芽生えたのだろう。
もっとも、篤胤は、寅吉の口を借りて「舌の腫れたるには うなこうじの黒焼きを足の裏に貼りて よく癒るものなり」と、應えているが、これは篤胤のオリジナルではない。水戸光圀が元祿五(一六九三)年に侍醫・穗積甫庵(生没年不詳)に命じて書かせた『救民妙藥』に、「小(せう)兒(に)舌胎(ぜつたい)わらんべ したにでき物で したしろくなるを云(中略)尾(お)長蛆陰干(ながうじかげぼし) 粉(こ)ニして そのこにて あしのひらにはりよし」とある。『救民妙藥』のタイトルからもわかるように、高価な藥が買えない庶民のために、簡單に手に入る野草などを症状にあわせ、その處方をまとめたものだ。時代劇で、携帯用の藥容れの印籠が水戸黄門のトレードマークとなっているのも、こんなところにあるのだろう。
『鄕土趣味』を主宰した田中緑紅は、京都の代々醫者の家に生まれた。田中緑紅は、『救民妙藥』の記述から、地元の柴田踏葉氏が斷定を避けているにもかかわらず、「うながうじは俗に吾々の云ふ雪隱虫の蛆の事を云つたもので、このやんよう神の動作が蛆の樣にはこばないぐづゝしたものであるのでこの若葉祭をうながうじ祭なんかと云つたものなのである」とし、續けて、「紙下け蟲」を詠んだ歌から、「又一説に、今迄いつもこのお祭に關した、豫告の樣なものを便所の戸に貼つたものだからこの名が生まれたともきいてゐる」と、斷定したのであろう。
ところで、『牛窪密談記』は、「若葉祭」の起源について、「牧野古白入道 或歳四月八日此若宮ヘ參詣アリシニ 其ノ主今川氏ノ許ヨリ使節到來シテ曰 當國渥美郡馬見塚村ノ邊ニテ要害ノ地理ヲ見立 一城ヲ築クヘシト 命令承リテ大ニ悦ヒ 家門ノ譽レ何事カ是ニ如カン 殊ニ當社ヘ參詣ノ折柄此吉事ヲ聞クコト 偏ニ當宮ノ御惠ナリト 取リアヘス庭前ノ柏葉ニテ神酒ヲ獻シ 其身モ快ク三獻ヲ傾ケヌ 猶喜ビノ餘リ 家紋ノ菊桐ヲ柏葉ニ替ヘヌルハ此所以ナリト 古老ノ云傳ヘナリ カクテ年々宗祇 宗長ノ兩子發句ヲ詠シテ若葉ニ結ヒ神前ニ供ヘ奉リ 牧野氏武運長久ノ祈念アリシトソ 是ヲ若葉ノ祭ト號ス」と記す。「神前ニ供ヘ奉リ」た後、發句を結んだ若葉は、言擧(ことあげ)の儀式として焚き上げられたのだろう。一色城の東は、灰塚野と呼ばれた。焚き上げられ、灰となった發句を結んだ若葉は、この灰塚野に流されたのだろう。
既述のように、牧野氏は、繩文の言語を理解していた。アイヌ語で祭祀の場でもあった灰捨場を"una・kuta・usi"という。この"una・kuta・usi"が訛化して、「ウナゴウジ」となり、「若葉祭」を「ウナゴウジ祭」と呼ぶようになったのではないかという假説を提示した。
Posted by 柴田晴廣 at 07:50│Comments(0)
│牛窪考(増補版)