2022年01月13日
『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明9(補遺二各論)
各論の「豊川流域の各社で奉納される「笹踊」の個別檢討」では、タイトルのとおり、各「笹踊」奉納社の「笹踊」を個別に檢討した。記録が殘っているなど、始めた年が古い順に論じた。
最初に「笹踊」を始めたのは、曲亭馬琴(一七六七〜一八四八)が、『羇(き)旅漫録(りょまんろく)』で、「三州吉田の天王まつりは六月十五日 今夜の花火天下第一と稱す」(同書卷の上の一八「吉田の花火」)と賞賛した城内天王(現吉田神社(豊橋市関屋町))で、同社所藏の『神社略記』(編者 山本松二/一九二三年成立)は、「正保二年ノ識語アル器具ヲ存ス」と、「笹踊」の大太鼓を擔當する吉田宿裏町十二町の一つ指(さし)笠(かさ)町(豊橋市新本町の一部)が、正保二(一六四五)年六月に太鼓を新調した旨主張するが、當時、指笠町は、安海熊野權現(豊橋市魚町(うおまち))の氏子であり、太鼓を新調したとする正保二年は、指笠町が城内天王の氏子になった干支一巡後の寶永二(一七〇五)年の誤りと考えられる。
文化一四(一八一七)年、幕府右筆の屋代(やしろ)弘(ひろ)賢(かた)(一七五八~一八四一)が、その土地の冠婚葬祭等の樣子を尋ねるため、各地の知人宛に作成した『風俗問状』に、吉田藩士の中山美(うま)石(し)(一七七五~一八四三)が答えた『三河國吉田領風俗問状答』も、「笹踊」の起源を、「小笠原候の城主たりし時」に求めている。小笠原氏が、吉田城主だったのは、正保二(一六四五)年七月から、元祿一〇(一六九七)年の間であるから、正保二年六月に「笹踊」の太鼓を調した旨は否定される。以上のこと等を考慮すれば、吉田では、小笠原氏が、吉田城主であった天和二(一六八二)年の綱吉襲封祝賀の第七次朝鮮通信使の街道往還を機に、「笹踊」を始めたと考えられる。
吉田の次に「笹踊」を始めたのは、牛久保である。牛久保で「笹踊」が始められるのは、寶永の大地震の翌年の寶永五(一七〇八)年のことだ。天和の通信使が來訪して四半世紀が經過している。だが、その衣裝は、吉田とはずいぶん異なる。異なるものの異國風の唐子衣裝だ。當時牛久保には、臨濟宗黄檗派(現黄檗宗)の寺院・補陀山善光庵(豊川市南大通二丁目)があった。當時の黄檗派は、建物や佛像、儀式にいたるまですべて中国式で行い、讀經も「唐音(とういん)」によった。異國風の衣裝の仕立てなども、善光庵に行けば、容易に學ぶことが出來たのだ。
既述のように、「笹踊」と「笹踊歌」は、一體不可分のものではないが、牛久保では、「笹踊歌」の節に合わせて、「笹踊」を踊る。
吉田、牛久保に續き、三谷で「笹踊」が始められる。正德の通信使が來訪した翌年の正德二(一七一二)年のことだ。既述のように、三谷では、「笹踊」を「くぐり太鼓」の名で呼ぶが、朝鮮通信使の影響という點を考慮すれば、「くぐり太鼓」は、高句麗太鼓が訛ったものであろう。三谷では、神幸の道中で踊ることはなく、八劔社と、お旅所の若宮社の廣前でのみ踊る。
既述のように三谷では、笹踊の踊り手は、下衣は着けない。その分、上衣は、膝丈ほどの長いものである。
四番目に、「笹踊」を始めるのは、山湊馬浪の地・交代寄合衆・菅沼氏の陣屋が置かれた、新城の地だ。能が盛んな新城で、「笹踊」を始めるのは、新城天一天王社の祭禮で能を初めて奉納した年でもある元文元(一七三六)年のことである。いままで述べた三ヶ所の「笹踊」が、體を屈める、腰を落とす、跳躍するといった踊りに重點を置くのに對し、既述のように、ここは太鼓の叩き方に重點を置く。
「笹踊」は、屋外で踊るものだが、新城では、能樂堂でも、「笹踊」を奉納する。
新城に續いて「笹踊」を始めるのは、豐川稻荷の門前町として榮た豊川。「笹踊」を始めたのは、寶暦(一七五一~一七六三)の末ごろと推測される。その理由を以下に述べれば、ここ豊川の「笹踊歌」には、「市は湯の日 丸市場 丸市場」「市は四日九日 四日九日」の文句がある。豐川稻荷を鎭守とする圓福山妙嚴寺の宗旨は曹洞宗。曹洞宗では、四と九の附く日が開浴の日だ。豐川稻荷が有名になり、妙嚴寺の規模が擴大するのが寶暦のころ、そして廣田弘(廣田氏の氏名表示に従った(著作権法一九条二項))著『東三河における祇園信仰と神事芸能』には、「豊川進雄神社の笹踊歌に記載されている宝暦一二年(一七六二)の記録などが古いところである」とあるからだ。
豊川の祭禮の神幸で、かつて先頭を歩んでいた、大鉾の社式には、「神幸乃最前爾捧持津御鉾乃耀與布光波高天原爾至利」と、神幸の先頭は大鉾である旨記してあるにもかかわらず、現在は、「笹踊」が先頭に代わっている。祭禮關係者の風流囃子物の無理解による祭禮組織の崩壞に伴う祭禮の變容である。"SARS-CoV-2"の感染拡大による祭禮の中止ないし縮小が続けば、豊川のみならず、多くの祭禮で、祭禮の變容が顕在化するであろう。
いま記録して置かなければ、いずれ祭禮の研究は困難を極めることが予想される。
次に「笹踊」を始めるのは、御馬である。この御馬には、引馬神社(天王社/豊川市御津町御馬字梅田)と八幡社(豊川市御津町御馬字塩浜)が鎭座し、元は別々に祭禮を行っていた(ただし祭禮組織は同じ)。いずれの祭禮でも「笹踊」を奉納していた。大太鼓の「文化五年戊辰六月大吉日 御馬村西若者」の識語があることから、文化五(一八〇八)年以前には、「笹踊」を奉納していたと思われる。
既述のように、御馬と先の豊川は、大太鼓の踊り手と小太鼓の踊り手の腰から下の動きが同じで、上半身の振りのみが、大太鼓と小太鼓で異なる。御馬と豊川は、朝鮮通信使に隨伴した樂隊の同じ踊りを見て、振りを考えたと思われる。文化五(一八〇八)年以前の通信使となれば、寶暦一四(一七六四)年になる。これが天王社の踊りの起源の上限と考えられる。
一方、八幡社の「笹踊」の振りは、萬延元(一八六〇)年に八幡八幡宮(豊川市八幡町本郷)の神主・大伴宜光(一八〇九~一八八二)が附けた。それ以前は、八幡社でも、天王社のと同じ踊りを踊っていた。
ここは、天王社の踊りとして、三ツ星、半追ひ、宮入、八幡社の踊りとして、三ツ星、宮入と、踊りの種類が多い。いずれの踊りも牛久保と同樣に、「笹踊歌」の節に合わせて踊り、豊川のように、お旅所までの道中、休みなく踊るのではなく、牛久保と同樣に、要所要所で踊る。
菟足神社(豊川市小坂井町宮脇)の「笹踊」については、當時菟足神社の氏子地であった寶飯郡下地村(豊橋市下地町)の住人・山本貞晨(一七七五頃~一八二一)の著作『三河國吉田名蹤綜録』(文化三(一八〇六)年頃刊)「菟足神社」の項に、「笹踊の事其外末社由縁委細舊記は三河名蹤綜録に載る 依て茲に省」とあることから、文化三年以前から、「笹踊」を始めていたと考えられる。
この菟足神社の「笹踊」の印象について、主に衣裝についてだが、『鄕土趣味』を主宰する田中緑紅は、「うながうじ祭雜話」で、「笠は菅笠で周圍に小さい御幣形の紙きれがついてゐて、赤地の上衣も、市松格子のズボンも共にお粗末である」と率直な感想を述べている。
ここの衣裝は、いままで見て来たところと異なり、金襴ではなく、笠も股旅物の三度笠だ。始めたのは、朝鮮通信使が、東海道を往還した明和元(一七六四)年以降のことと思われる。
この後に論じる「笹踊」奉納社も、昭和になって吉田から踊りを習った大村を除き、衣裝が金襴の所はない。
現在中断している当古の「笹踊」は、明治元(一八六八)年生まれの大林亙の曾祖父で當古天王社の神主・大林外記が、神主であった文化二(一八〇二)年から天保一三(一八四二)年の間は、大林外記自らが「笹踊」を演じて、氏子らに教えていたと傳わる。金襴でないものの、その衣裝は、山吹色の羽二重の上衣に、下衣は、勝虫(蜻蛉)の模樣が白拔きで染められている淺青色の股引、笠は金地に白の牡丹花が描かれ、縁にうねりはないものの豊川進雄神社のものと似る。また間宮氏は、踊りの印象について、「御津(みと)引(ひく)馬(ま)・当古(とうご)進(すさ)雄(のお)神社は牛久保八幡社と共に古く、しっかり伝承されている」と、感想を述べている。小坂井のように、『三河國吉田名蹤綜録』に「笹踊」の記載があるといった客觀的な資料がないため、小坂井の後で論じたが、間宮氏のみならず、私の踊りの印象からも、小坂井より古く、その衣裝から、朝鮮通信使の裝いが强く記憶に殘っていた時代に始められたと考えられる。
牛久保と同様に、囃子方が地面に寝転ぶ大木の「笹踊」は、嘉永四(一八五〇)年の識語のある衣裝、安政五(一八五八)年と記された太鼓の胴卷がある。その胴卷は、朱地金襴、上衣は紺羅紗。
その大木の西の千両の「笹踊」は、大木から傳わったという。衣裝は、素材は異なるものの、大木と似るが、踊りの所作は、全く異なる。大木の「笹踊」が、小太鼓の踊り手が常に對稱となるのに對し、千両では、小太鼓の踊り手が對稱になることはなく、三人が巴状の動きをする。
慶應四(一八六八)年に半原藩の藩廳所在地となる富岡は、慶應年間(一八六五~一八六八)疫病が流行したのを機に藩主安部(あんべ)信發(のぶおき)(一八四七~一八九五)が津島より勸請し、祭禮を始めたという。「笹踊」もこのときから始められる。
天正三(一五七五)年、織田德川聯合軍と武田軍が對峙した設樂(したら)原(はら)の北に鎭座する石座(いわくら)神社(新城市大宮狐塚)の「笹踊」は、明治一〇(一八七七)年ごろに始められたという。始めた年代からか、衣裝は他と比べ異國風という面は尠ない。
本宮山の表参道の入り口に当たる上長山で、「笹踊」が始められたのは、明治時代半ばで、最初、若宮神社で始められ、素戔嗚、白鳥に傳わったというが、三社とも踊りは異なる。
豊津で「笹踊」を始めるのは、その「笹踊歌」で歌われるように、八名郡中島村、同日下部村、同井之島村が合併し、豐津村となり、それぞれの村の氏神である石宮・日下部・素戔嗚の三社が合祀され、豐津神社となった明治二七(一八九四)年である。當古から傳わったというが、衣裝も踊りの所作も當古とは異なる。
近江膳所藩主として明治を迎える伊奈本多氏の居城のあった伊奈で、「笹踊」を始めるのは、明治の終わりごろといわれる。境内を三周するときに踊られる踊りは、最初の一周目は、菟足神社の、二周目、三周目の踊りは三谷の踊りに似る。ここの「笹踊歌」の作詞者は、菟足神社の宮司でもあった川出直吉、祭禮には、自動車のシャシにタイヤを付けた祭車が曳かれるが、車上で奏でられる曲は、三谷祭の山車で奏でられるものと同じである。
江戸時代には、大津と呼ばれた老津で「笹踊」が始められるのは、昭和に入ってからだ。吉田から傳わったというが、吉田とは、衣裝も踊りも全く異なる。
下郷の風祭とも呼ばれる大村の祭禮で、「笹踊」が始められるのも、老津と同じく昭和に入ってからのことだ。ここも吉田から傳わったという。笠が吉田は金、大村は黒と異なるものの、他は忠實に再現されており、踊りも戦後後継者難で、所作が崩れた吉田より、傳わった當時の踊りが忠實に繼承されている。
最後に旧額田町の石原。ここは大太鼓一人、小太鼓一人、笠も冠っておらず、服装も平服と、「笹踊」の定義には全く当てはまらず、発音も通常の「笹踊」と同様に、「お」にアクセントが来る。ただ地理的な関係などから、豊川流域の「笹踊」の影響が見て取れる。戰前には始めていたと思われ、三谷から鉢地峠を越え、本宿まで行商に行っていたことから、「笹踊」の影響もこのルートで流入したのだろう。
個別の檢討は以上であるが、江戸時代、通信使が往還した地域では、唐人踊り、唐子踊り、唐人行列といった練り物が祭禮に登場していた。その幾つかは明治になって中止された。歪な明治政府の脱亞入歐、和魂洋才の政策に沿ったものだろう。「笹踊」が明治になっても中止されず、逆に明治以降にも始めたところもある。その名が、唐人、唐子といった亞細亞の異國に起源を持つことを聯想させるものではなかったからだろう。
同じような唐子衣裝をまとった民俗藝能に、郡上八幡の獅子神樂の獅子の操り役があるが、これも比較的たくさん殘っている。唐人、唐子といった呼び名ではないからだろう。
各論「豊川流域の各社で奉納される「笹踊」の個別檢討」では、主に以上の點を論じた。
最初に「笹踊」を始めたのは、曲亭馬琴(一七六七〜一八四八)が、『羇(き)旅漫録(りょまんろく)』で、「三州吉田の天王まつりは六月十五日 今夜の花火天下第一と稱す」(同書卷の上の一八「吉田の花火」)と賞賛した城内天王(現吉田神社(豊橋市関屋町))で、同社所藏の『神社略記』(編者 山本松二/一九二三年成立)は、「正保二年ノ識語アル器具ヲ存ス」と、「笹踊」の大太鼓を擔當する吉田宿裏町十二町の一つ指(さし)笠(かさ)町(豊橋市新本町の一部)が、正保二(一六四五)年六月に太鼓を新調した旨主張するが、當時、指笠町は、安海熊野權現(豊橋市魚町(うおまち))の氏子であり、太鼓を新調したとする正保二年は、指笠町が城内天王の氏子になった干支一巡後の寶永二(一七〇五)年の誤りと考えられる。
文化一四(一八一七)年、幕府右筆の屋代(やしろ)弘(ひろ)賢(かた)(一七五八~一八四一)が、その土地の冠婚葬祭等の樣子を尋ねるため、各地の知人宛に作成した『風俗問状』に、吉田藩士の中山美(うま)石(し)(一七七五~一八四三)が答えた『三河國吉田領風俗問状答』も、「笹踊」の起源を、「小笠原候の城主たりし時」に求めている。小笠原氏が、吉田城主だったのは、正保二(一六四五)年七月から、元祿一〇(一六九七)年の間であるから、正保二年六月に「笹踊」の太鼓を調した旨は否定される。以上のこと等を考慮すれば、吉田では、小笠原氏が、吉田城主であった天和二(一六八二)年の綱吉襲封祝賀の第七次朝鮮通信使の街道往還を機に、「笹踊」を始めたと考えられる。
吉田の次に「笹踊」を始めたのは、牛久保である。牛久保で「笹踊」が始められるのは、寶永の大地震の翌年の寶永五(一七〇八)年のことだ。天和の通信使が來訪して四半世紀が經過している。だが、その衣裝は、吉田とはずいぶん異なる。異なるものの異國風の唐子衣裝だ。當時牛久保には、臨濟宗黄檗派(現黄檗宗)の寺院・補陀山善光庵(豊川市南大通二丁目)があった。當時の黄檗派は、建物や佛像、儀式にいたるまですべて中国式で行い、讀經も「唐音(とういん)」によった。異國風の衣裝の仕立てなども、善光庵に行けば、容易に學ぶことが出來たのだ。
既述のように、「笹踊」と「笹踊歌」は、一體不可分のものではないが、牛久保では、「笹踊歌」の節に合わせて、「笹踊」を踊る。
吉田、牛久保に續き、三谷で「笹踊」が始められる。正德の通信使が來訪した翌年の正德二(一七一二)年のことだ。既述のように、三谷では、「笹踊」を「くぐり太鼓」の名で呼ぶが、朝鮮通信使の影響という點を考慮すれば、「くぐり太鼓」は、高句麗太鼓が訛ったものであろう。三谷では、神幸の道中で踊ることはなく、八劔社と、お旅所の若宮社の廣前でのみ踊る。
既述のように三谷では、笹踊の踊り手は、下衣は着けない。その分、上衣は、膝丈ほどの長いものである。
四番目に、「笹踊」を始めるのは、山湊馬浪の地・交代寄合衆・菅沼氏の陣屋が置かれた、新城の地だ。能が盛んな新城で、「笹踊」を始めるのは、新城天一天王社の祭禮で能を初めて奉納した年でもある元文元(一七三六)年のことである。いままで述べた三ヶ所の「笹踊」が、體を屈める、腰を落とす、跳躍するといった踊りに重點を置くのに對し、既述のように、ここは太鼓の叩き方に重點を置く。
「笹踊」は、屋外で踊るものだが、新城では、能樂堂でも、「笹踊」を奉納する。
新城に續いて「笹踊」を始めるのは、豐川稻荷の門前町として榮た豊川。「笹踊」を始めたのは、寶暦(一七五一~一七六三)の末ごろと推測される。その理由を以下に述べれば、ここ豊川の「笹踊歌」には、「市は湯の日 丸市場 丸市場」「市は四日九日 四日九日」の文句がある。豐川稻荷を鎭守とする圓福山妙嚴寺の宗旨は曹洞宗。曹洞宗では、四と九の附く日が開浴の日だ。豐川稻荷が有名になり、妙嚴寺の規模が擴大するのが寶暦のころ、そして廣田弘(廣田氏の氏名表示に従った(著作権法一九条二項))著『東三河における祇園信仰と神事芸能』には、「豊川進雄神社の笹踊歌に記載されている宝暦一二年(一七六二)の記録などが古いところである」とあるからだ。
豊川の祭禮の神幸で、かつて先頭を歩んでいた、大鉾の社式には、「神幸乃最前爾捧持津御鉾乃耀與布光波高天原爾至利」と、神幸の先頭は大鉾である旨記してあるにもかかわらず、現在は、「笹踊」が先頭に代わっている。祭禮關係者の風流囃子物の無理解による祭禮組織の崩壞に伴う祭禮の變容である。"SARS-CoV-2"の感染拡大による祭禮の中止ないし縮小が続けば、豊川のみならず、多くの祭禮で、祭禮の變容が顕在化するであろう。
いま記録して置かなければ、いずれ祭禮の研究は困難を極めることが予想される。
次に「笹踊」を始めるのは、御馬である。この御馬には、引馬神社(天王社/豊川市御津町御馬字梅田)と八幡社(豊川市御津町御馬字塩浜)が鎭座し、元は別々に祭禮を行っていた(ただし祭禮組織は同じ)。いずれの祭禮でも「笹踊」を奉納していた。大太鼓の「文化五年戊辰六月大吉日 御馬村西若者」の識語があることから、文化五(一八〇八)年以前には、「笹踊」を奉納していたと思われる。
既述のように、御馬と先の豊川は、大太鼓の踊り手と小太鼓の踊り手の腰から下の動きが同じで、上半身の振りのみが、大太鼓と小太鼓で異なる。御馬と豊川は、朝鮮通信使に隨伴した樂隊の同じ踊りを見て、振りを考えたと思われる。文化五(一八〇八)年以前の通信使となれば、寶暦一四(一七六四)年になる。これが天王社の踊りの起源の上限と考えられる。
一方、八幡社の「笹踊」の振りは、萬延元(一八六〇)年に八幡八幡宮(豊川市八幡町本郷)の神主・大伴宜光(一八〇九~一八八二)が附けた。それ以前は、八幡社でも、天王社のと同じ踊りを踊っていた。
ここは、天王社の踊りとして、三ツ星、半追ひ、宮入、八幡社の踊りとして、三ツ星、宮入と、踊りの種類が多い。いずれの踊りも牛久保と同樣に、「笹踊歌」の節に合わせて踊り、豊川のように、お旅所までの道中、休みなく踊るのではなく、牛久保と同樣に、要所要所で踊る。
菟足神社(豊川市小坂井町宮脇)の「笹踊」については、當時菟足神社の氏子地であった寶飯郡下地村(豊橋市下地町)の住人・山本貞晨(一七七五頃~一八二一)の著作『三河國吉田名蹤綜録』(文化三(一八〇六)年頃刊)「菟足神社」の項に、「笹踊の事其外末社由縁委細舊記は三河名蹤綜録に載る 依て茲に省」とあることから、文化三年以前から、「笹踊」を始めていたと考えられる。
この菟足神社の「笹踊」の印象について、主に衣裝についてだが、『鄕土趣味』を主宰する田中緑紅は、「うながうじ祭雜話」で、「笠は菅笠で周圍に小さい御幣形の紙きれがついてゐて、赤地の上衣も、市松格子のズボンも共にお粗末である」と率直な感想を述べている。
ここの衣裝は、いままで見て来たところと異なり、金襴ではなく、笠も股旅物の三度笠だ。始めたのは、朝鮮通信使が、東海道を往還した明和元(一七六四)年以降のことと思われる。
この後に論じる「笹踊」奉納社も、昭和になって吉田から踊りを習った大村を除き、衣裝が金襴の所はない。
現在中断している当古の「笹踊」は、明治元(一八六八)年生まれの大林亙の曾祖父で當古天王社の神主・大林外記が、神主であった文化二(一八〇二)年から天保一三(一八四二)年の間は、大林外記自らが「笹踊」を演じて、氏子らに教えていたと傳わる。金襴でないものの、その衣裝は、山吹色の羽二重の上衣に、下衣は、勝虫(蜻蛉)の模樣が白拔きで染められている淺青色の股引、笠は金地に白の牡丹花が描かれ、縁にうねりはないものの豊川進雄神社のものと似る。また間宮氏は、踊りの印象について、「御津(みと)引(ひく)馬(ま)・当古(とうご)進(すさ)雄(のお)神社は牛久保八幡社と共に古く、しっかり伝承されている」と、感想を述べている。小坂井のように、『三河國吉田名蹤綜録』に「笹踊」の記載があるといった客觀的な資料がないため、小坂井の後で論じたが、間宮氏のみならず、私の踊りの印象からも、小坂井より古く、その衣裝から、朝鮮通信使の裝いが强く記憶に殘っていた時代に始められたと考えられる。
牛久保と同様に、囃子方が地面に寝転ぶ大木の「笹踊」は、嘉永四(一八五〇)年の識語のある衣裝、安政五(一八五八)年と記された太鼓の胴卷がある。その胴卷は、朱地金襴、上衣は紺羅紗。
その大木の西の千両の「笹踊」は、大木から傳わったという。衣裝は、素材は異なるものの、大木と似るが、踊りの所作は、全く異なる。大木の「笹踊」が、小太鼓の踊り手が常に對稱となるのに對し、千両では、小太鼓の踊り手が對稱になることはなく、三人が巴状の動きをする。
慶應四(一八六八)年に半原藩の藩廳所在地となる富岡は、慶應年間(一八六五~一八六八)疫病が流行したのを機に藩主安部(あんべ)信發(のぶおき)(一八四七~一八九五)が津島より勸請し、祭禮を始めたという。「笹踊」もこのときから始められる。
天正三(一五七五)年、織田德川聯合軍と武田軍が對峙した設樂(したら)原(はら)の北に鎭座する石座(いわくら)神社(新城市大宮狐塚)の「笹踊」は、明治一〇(一八七七)年ごろに始められたという。始めた年代からか、衣裝は他と比べ異國風という面は尠ない。
本宮山の表参道の入り口に当たる上長山で、「笹踊」が始められたのは、明治時代半ばで、最初、若宮神社で始められ、素戔嗚、白鳥に傳わったというが、三社とも踊りは異なる。
豊津で「笹踊」を始めるのは、その「笹踊歌」で歌われるように、八名郡中島村、同日下部村、同井之島村が合併し、豐津村となり、それぞれの村の氏神である石宮・日下部・素戔嗚の三社が合祀され、豐津神社となった明治二七(一八九四)年である。當古から傳わったというが、衣裝も踊りの所作も當古とは異なる。
近江膳所藩主として明治を迎える伊奈本多氏の居城のあった伊奈で、「笹踊」を始めるのは、明治の終わりごろといわれる。境内を三周するときに踊られる踊りは、最初の一周目は、菟足神社の、二周目、三周目の踊りは三谷の踊りに似る。ここの「笹踊歌」の作詞者は、菟足神社の宮司でもあった川出直吉、祭禮には、自動車のシャシにタイヤを付けた祭車が曳かれるが、車上で奏でられる曲は、三谷祭の山車で奏でられるものと同じである。
江戸時代には、大津と呼ばれた老津で「笹踊」が始められるのは、昭和に入ってからだ。吉田から傳わったというが、吉田とは、衣裝も踊りも全く異なる。
下郷の風祭とも呼ばれる大村の祭禮で、「笹踊」が始められるのも、老津と同じく昭和に入ってからのことだ。ここも吉田から傳わったという。笠が吉田は金、大村は黒と異なるものの、他は忠實に再現されており、踊りも戦後後継者難で、所作が崩れた吉田より、傳わった當時の踊りが忠實に繼承されている。
最後に旧額田町の石原。ここは大太鼓一人、小太鼓一人、笠も冠っておらず、服装も平服と、「笹踊」の定義には全く当てはまらず、発音も通常の「笹踊」と同様に、「お」にアクセントが来る。ただ地理的な関係などから、豊川流域の「笹踊」の影響が見て取れる。戰前には始めていたと思われ、三谷から鉢地峠を越え、本宿まで行商に行っていたことから、「笹踊」の影響もこのルートで流入したのだろう。
個別の檢討は以上であるが、江戸時代、通信使が往還した地域では、唐人踊り、唐子踊り、唐人行列といった練り物が祭禮に登場していた。その幾つかは明治になって中止された。歪な明治政府の脱亞入歐、和魂洋才の政策に沿ったものだろう。「笹踊」が明治になっても中止されず、逆に明治以降にも始めたところもある。その名が、唐人、唐子といった亞細亞の異國に起源を持つことを聯想させるものではなかったからだろう。
同じような唐子衣裝をまとった民俗藝能に、郡上八幡の獅子神樂の獅子の操り役があるが、これも比較的たくさん殘っている。唐人、唐子といった呼び名ではないからだろう。
各論「豊川流域の各社で奉納される「笹踊」の個別檢討」では、主に以上の點を論じた。
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│牛窪考(増補版)