2022年01月06日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明3(拾遺一)

 拾遺一では、妄説ともいえる俗にいう「うなごうじ=蛆虫説」の成立過程の檢證、豊川下流域の神事藝能「笹踊」は朝鮮通信使の影響で始められたこと、牛久保の「若葉祭」で、「笹踊」の囃子方のヤンヨーガミが路上に寝転ぶようになったのは、牧野氏が牛久保の領主であった頃のことではなく、寶永の大地震がきっかけになったことの三點を論じた。
 まず、一點目の「蛆虫説」については、たとえば、豊川市が市制五十周年記念事業の一環として市内全戸に無料配布した豊川の歴史散歩編集委員会編『豊川の歴史散歩』(一九九三年刊)には、「うなごうじ祭というのは俗称であって、正しくは若葉祭(市指定)という。うなごうじというのは、尾長蛆の変化した語でうじ虫のことである。これは、祭の行列の最後尾を受け持つ笹踊りの一隊の中にいる「ヤンヨウガミ」という囃子方の一群が、ところかまわず道路上に寝転ぶ有様が、うじ虫に似ていることから付いた名である」と書いてある。
 それから二十年後の市制七十周年記念事業として刊行された豊川市教育委員会編『新版 豊川の歴史散歩』は、「ヤンヨウガミは「サーゲニモサーヤンヨウガミモヤンヨー」と囃したところで路上に寝転び、仲間から手を差し出されるまでは起き上がってはならないとされ、この寝転んでいる様子がうじ虫に似ていることが、若葉祭りが「うなごうじ祭」とよばれる理由ともいわれる」(同書八九頁)と幾分断定を避けた表現になっているものの、ヤンヨーガミが路上に寝転ぶ姿が蛆虫に似ていることから、尾長蛆が変化した語のうなごうじからうなごうじ祭と呼ばれるようになった旨を記している。
 まず、うなごうじが尾長蛆の変化した語であるなら、どう変化するかを説明すべきである。また尾長蛆は、蛆の一種ではあっても、蛆=尾長蛆ではない。尾長蛆に似ているならともかく、単なる蛆に似ているだけで、なぜに尾長蛆が変化したうなごうじになるのか。
 このうなごうじは尾長蛆を変化した語という点については、上記の豊川市の公式見解では言及されていないものの、うなごうじは尾長蛆の方言と説明する説もある。私は牛久保で生まれ育ったが、うなごうじという方言を知らない。
 ところが、杉浦久雄著『牟呂の方言』(一九九八年刊)には、「ウナゴージ 蝿の子、即ち蛆である。豊川の牛久保にはウナゴージ祭というのがある」(四二頁)とある。この『牟呂の方言』に先行する吉川利明・山口幸洋共著『豊橋地方の方言』(一九七二年刊/四〇七・四〇八頁)、及び『豊橋地方の方言』が出典とする豐橋教育会編『鄕土教育資料』(六八頁)には、「うなごおじ―尾長蛆」が收録されている。
 そして『鄕土教育資料』が刊行された昭和七(一九三二)年に、渥美郡牟呂吉田村(現豊橋市牟呂町及び吉田方などの豊橋市立牟呂中学及び同吉田方中学校区)が、豐橋市に合併されている。
 牟呂といえば、「ええじゃないか」發祥の地。その「ええじゃないか」の黒幕といわれるのが、當時の羽田八幡宮(豊橋市花田町斎東)神主の羽田野敬雄(一七九八~一八八二)だ。その羽田野の師・平田篤胤(一七七六~一八四三)の著作『仙境異聞』(文政五(一八二二)年刊)に「うなこうじ」と出ていることに気付いた。同書上卷二に「また或人問ふて云はく、咽(のど)にとげの立ちたる時は、いかによき呪禁はなきか。舌の腫れたるは如何にすべき。寅吉云はく、古歌の字の(缺落)舌の腫れたるには、うなこうじの黒焼きを足の裏に貼りて、よく癒るものなり」とある。
 どうやら、「うなごうじ=蛆虫説」の淵源は、この羽田野にあるものの、羽田野も「若葉祭」の俗稱うなごうじが尾長蛆に由來するとの確たる證據がないことから、公言はしなかったのだろう。とはいえ、身近な者には語っていたものと思われる。
 そして「うなごうじ=蛆虫説」が文獻に現れるのが、『鄕土趣味』大正十三年六月號(通號五十四號)に載る柴田踏葉が寄稿した『三河うながうじ祭』及び『鄕土趣味』を主宰する田中緑紅(千八百九十一~千九百六十九)の『うながうじ祭雜話』である。
 だが、これらの論考は、ヤンヨーガミの姿態のみならず、神幸の長蛇の列から、うなごうじの名稱が生まれたのではないかとする。
 ところが、豐田珍彦が、その著『東三河道中記』(一九三五年發行)で、「その行列の殿りを承るやんよう神が泥の中をも構はず寢たり起きたりする樣は實に奇觀です。これは笹踊のはやし方で、その轉ぶ樣がうなごうじ(うじ虫)に似てゐるから付けられた名です」と斷定し、伊奈森太郎が『三河のお祭』(一九五三年刊)で、「ウナゴウジというのはウジムシのことで、これは行列の一組である笹踊の一隊の中にヤンヨウガミというのが有ってウジ虫の如く地上をころころ転びのたづるから付いた名である」と、講釋師見て來たような嘘をつき(伊奈がいうように「地上をころころ転びのたづ」ったりしない)、それを一九七一年にNHK「ふるさとの歌まつり」で、『若葉祭』で取り上げ、伊奈の説を踏襲し、それが上記の『豊川の歴史散歩』の豊川市の見解に繋がったのだ。

 話は変わるが、以前、鄕土史についての私の見解について投稿した(https://tokosabu.dosugoi.net/e1127140.html)が、鄕土史の多くは客觀性を缺くものだ。そのくせ、このうなごうじ=蛆虫説のように、人口に膾炙すると迎合する。たとえそれが妄説であってもだ。
 「牛窪考」のタイトルはついているが、私は鄕土史を語るつもりは毛頭ない。
 ところで、「うなごうじ=蛆虫説」の如く、都市伝説のような言説がなぜ生まれるのか。
 私は、中学のときに上若組の「隱れ太鼓」を踊り、上若組の総長を務め、若い衆を抜けたのちは、上若組の「隱れ太鼓」の囃子方を二十年近く務めていた(下記が「隱れ太鼓」の動画のURLで、左が上若組)。
https://www.youtube.com/watch?v=iMtRHaTEq0s
https://www.youtube.com/watch?v=Zi7ptCdgHC4&t=15s
 私自身、当然民俗学の聞き取りの対象になったこともあるし、若い衆からの聞き取りを傍らで見ていたこともある。私は、この民俗学の聞き取り調査に首を傾げる。
 若い衆の聞き取りを横で聞いていた時のことだが、若い衆は「昔から」と応えているが、それは私が若い衆のときに始めたことだった。祭禮見学で耳にする「昔から」は、御伽噺の「昔々」のような共同幻想ではなく、自己幻想に過ぎないのだ。
 民俗学は、聞き取った傳承をそれが自己幻想か、対幻想か、共同幻想かも検証することなく、単に採録するだけだ。こうしたことが都市伝説の形成に繋がるのである。
 この「うなごうじ=蛆虫説」を考える上で、もう一つ重要なキーワードは、先に説明した過誤記憶である。
 「うなごうじ祭」の「うなごうじ」=尾長蛆→蛆虫由來説〟という都市伝説にも似た言説を語る上でも、受け繼がれ、やがて歴史となる過誤記憶の多くが、權力におもねる傾向にある點を考慮する必要があろう。
 余談になるが、この公現の男系の玄孫が、タレントの竹田何某である。本人は明治天皇の玄孫を称するが、明治天皇は女系の先祖に過ぎない。

 つぎに、「笹踊」朝鮮通信使影響説。
 私は独学であるが、韓国・朝鮮語を理解出来る。三十数年前のことになるが、近所に韓国から働きに来ていた者が住んでおり、彼と『若葉祭』を見ていた折に、彼が「笹踊」を指し、韓国・朝鮮語で「三人の踊り」を意味する"ses saram nori"という言葉を発したことが、「笹踊」に朝鮮通信使の影響に及んだ瞬間であった。そして彼に「笹踊」の説明をしているうちに、笹を持って踊るでもない「笹踊」は、"ses saram nori"が訛って「笹踊」と呼ばれるに至ったのではないかと思いに至った。
 この「笹踊」、津島から傳わったとの言説もあるが、對馬經由でやって來る朝鮮通信使が、やがて來訪しなくなり、時を經て、對馬が津島となった過誤記憶が共同幻想に昇華したものと考えられる。

 最後に寶永の大地震と『若葉祭』のヤンヨーガミについて。
 一九九八年から二〇〇〇年にかけて調査された『あいちの祭り行事』(愛知県教育委員会刊)の「牛久保のうなごうじ祭り」の項(執筆者は牛久保在住で、当時豊川市役所職員の梅村則義氏)の「その他」の項目には、「若葉祭の時、牧野成時はじめ代々の城主は、領民の主だった者を城中に招いて酒食をふるまった。酒に酔った領民たちは帰る途中ごろごろと路上に寝転んだりして帰った。この様子を、今に伝えているのが、最後尾のヤンヨー神である。路上に寝転ぶ様子が「うじむし」に似ているところから、この祭りを「うなごうじ祭り」とも呼ばれる」とある。
 ところが、祭りの起源ともなり、その樣子を傳えるというヤンヨー神は、一色城あるいは牛久保城跡に寄ることもない。
 さらに戰國の世に領民を城に招けば、間者が紛れ込む恐れもある。「常在戰場」を家訓とした牧野氏がそのようなことをするはずもなければ、假にそんなことをしておれば、牧野家は、戰國の世を生き殘れなかっただろう。
 加えて、そのヤンヨー神は、「笹踊」の囃子方である。『若葉祭』で、「笹踊」が始められるのが、寶永五(一七〇八)年のことであり、その前年には、寶永大地震があり、吉田城の本丸御殿もこの地震で倒壞の憂き目に遭う。
 このときの被害については、吉田宿表町十二町の一つ呉服町の住人・林自見(一六九四~一七八七)が『三州吉田記』の中の「吉田城主記」に書いており、地震があった二か月餘り後の一二月二一日には、吉田城主の牧野成央(一六九九~一七一九)が、地震見舞いに城下に金品や酒を振る舞い、領民が大日待を行った旨を記している。
 當時牛久保は旗本米津領であったが、先祖の故地牛久保に成央が金品や酒を振舞ったことは大いにあり得る。しかしそれは越權行為になる。故に施しを受けた牛久保の住人は、苦肉の策として戰國の世のこととしたのではないか。
 この話も過誤記憶が共同幻想に昇華したものだ。私が追い求めるテーマは、過誤記憶から共同幻想に昇華した創られた「歴史」に隱された眞實を證かすことにある。そして私が追い求めるテーマには、聞き取りだけでそれを検証しない民俗学や文献史学の手法は無力なのである。私が興味を持ち、追い求めるテーマは、このように民俗学や歴史学の手法では解明できないものであり、『牛窪考(増補改訂版)』での私の言説は、いずれもオリジナルであり、通説とは異なるものである。



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Posted by 柴田晴廣 at 05:14│Comments(0)牛窪考(増補版)
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