2022年01月07日
『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明4(補遺一1)
補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」は、拾遺一「「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と豊川流域の「笹踊」」の最初の見出し「 「うなごうじ祭」は「蛆虫祭」ではない」に対応するもので、「うなごうじ=蛆蟲説」が過誤記憶から共同幻想に昇華する過程をさらに詳述に檢討したものである。
既述のように、「うなごうじ=蛆蟲説」の淵源は羽田野敬雄にあるが、その羽田野が牛久保をどう見ていたか。それを檢證したのが、最初の見出し「平田派國學者・羽田野敬雄の牛久保觀」の項である。
既述のように、「牛久保八幡社社傳」は、その創建について「天平神護(七六五~七六七)のころ、三河國は日照りが續き五穀が實らず飢饉となった。その翌年も不作となり、里人は離散し、土地は荒れるにまかせられ、この地は常荒と呼ばれるようになった。國司は、住民の心が荒ぶことを憂い、氏神・若宮殿の社殿を建立した」旨を記述する。
この三河の旱魃については、『續日本紀』卷二六天平神護元(七六五)年三月乙未(四日)條に載り、その三年前の天平寶字六年にも三河では旱魃があり、『續日本紀』卷二四天平寶字六年(七六二)年三月戊申(二九日)條は、旱魃が起こる理由を、國司が國津神を祀らないための天罰である旨を載せる。
現在牛久保八幡社の祭神は、大雀(仁德)であるが、それは表向きのことで、實際には、地祇を祭神とするのである。牛久保八幡社の社格は鄕社であったが、この社傳では、上を望むことは出來ない。というより、鄕社の社格をよく得られたものだ。神主でもある羽田野も同樣に思っていただろう。
さて、その羽田野は、平田派國學者であったが、國學とは名ばかりで、その核心は儒學にあった。
尊皇攘夷の尊皇は、儒學の尊王斥霸に由來する。「記紀」の記述を読むまでもなく、「記紀」を眺めるだけで、天皇なんていうのは、古代の霸者であることは明白だ。尊王斥霸からいえば、天皇は、尊ぶ存在ではなく、斥けるべき存在なのだ。
加えて置けば、「万世一系」という父系制も儒學によるものである。卑彌呼から臺與への祭祀の繼承、『源氏物語』における妻問婚の形態、江戸時代の商家での優秀な奉公人を婿に迎える婚姻形態、最近若干崩れてきたが、相撲部屋におけるおかみから娘への部屋の継承。このように、このクニ本來の相續の姿は母系であり、「万世一系」は、このクニの相續の形態としては極めて異質なものだ。このことからも天皇はこの国から排除すべき存在といえるのだ。
攘夷という言葉も儒學の華夷秩序から來るものだが、倭は中国の史書の東夷傳等に載ることからもわかるように、華夷秩序では、夷荻なのである。
その夷の倭を、華と勘違いするきっかけは、明からの亡命者・朱舜水(一六〇〇~一六八二)の「日本こそが中華である」との言説にある。
もちろん、朱舜水は、「日本こそが中華である」など本心で思っているはずもない。
クニの成立条件の一つに通貨発行権がある。日本で通貨が發行されるのは、寛永通寶(一六三六年初鑄)からだ。それまでは、永樂通寶などの中国錢が流通していた。アメリカの準州のグアムでは米ドルが通貨として使われている。朱瞬水が來日する四半世紀前まで日本は中国の準州のような存在だったのだ。
暦についても、貞享暦(一六八五年編纂)の採用まで、中国からの借りものであった(明治になり西洋からの借り物に戻る)。
朱舜水が本心で、「日本こそ中華」などというわけがない。
ところがおめでたい輩もいるもので、山鹿素行(一六二二~一六八五)が、本心からいったでもない、朱舜水の「日本こそ中華」の言説を眞に受け、『中朝事實』を著す。
また平田篤胤は、秋田藩の大番組頭・大和田家の四男として生を受ける。この大和田家は、徹底した「尊王斥霸」論者の淺見絅齋(けいさい)(一六五二~一七一二)門下であり、篤胤は玄胤―─依胤―─祚胤と續く朱子學を家業とする家に生まれた。
また幕末のテロリスト養成機關・松下村塾を主宰した吉田矩方(一八三〇~一八五九)は、おめでたい山鹿素行(一六二二~一六八五)の子孫の山鹿素水(?~一八五七)の門人だ。
『日本書紀』卷二(神代下)第九段本文は、「然 彼地多有螢火光神及蠅聲邪神 復有草木咸能言語」と、同段一書第六は、「葦原中國者 磐根 木株 草葉 猶能言語 夜者若熛火而喧響之 晝者如五月蠅而沸騰之」と、『古事記』上卷の葦原中國平定條も「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者 伊多久佐夜藝弖有那理」と、草木までものいう「八百萬の神祭り」の姿を描寫する。この多神教の世界は、『大乘涅槃經』で説かれる「一切衆生悉有佛性」、安然(八四一?~九一五?)が著わした 『斟成私記』の「草木國土悉皆成佛」へと受け繼がれ、謠曲の「鵺(ぬえ)」、「墨染(すみぞめ)櫻(ざくら)」、「芭(ば)蕉(しょう)」、「杜若(かきつばた)」、「六浦(むつら)」、「現在七面(げんざいしちめん)」、「西(さい)行櫻(ぎょざさくら)」、「高砂(たかさご)」、「定(てい)家(か)」などの中の妙文を通じて擴く浸透した。
ところが、幕末の國學は、「八百萬の神祭り」とは、かけ離れた、排他的なものなのである。
その排他性を旨とする國學者の羽田野の目には唐子衣裝をまとった「笹踊」、同じく唐子衣裝で太鼓を叩く「隱れ太鼓」を祭禮出し物とする牛久保の『若葉祭』はどう映っただろう。
『仙境異聞』に書かれた「うなこうじ」と、『若葉祭』の異稱「うなごうじ祭」の「うなごうじ」は關係があるかもしれないといったことを口走っても不思議はない。
唐子衣裝をまとい、太鼓を叩き踊る「隱れ太鼓」が演ぜられる大山車を曳く際には、清樂『九連環』の替え歌を唄った。實は、この『九連環』が補遺三 「隱れ太鼓」考」の「『帝都物語外伝 機関童子』に見る「若葉祭」の「隱れ太鼓」」の項の伏線になっている。
既述のように、私の著作は、独自の視点から独自の展開をしている。そしてこのような伏線を幾重にも張ってある。拾い読みしても、理解は困難であろう。読むなら最初から順に読んで頂きたい。
幕末には遠州灘にも外国船が航行し、否が応でも、倒幕と攘夷が重なり、神主の羽田野は廢佛毀釋へと突き進むのだ。
羽田野の目に『若葉祭』がどう映ったかは想像に難くない。
下記URLは、清樂『九連環』に関する過去の投稿
https://tokosabu.dosugoi.net/e1170982.html
既述のように、「うなごうじ=蛆蟲説」の淵源は羽田野敬雄にあるが、その羽田野が牛久保をどう見ていたか。それを檢證したのが、最初の見出し「平田派國學者・羽田野敬雄の牛久保觀」の項である。
既述のように、「牛久保八幡社社傳」は、その創建について「天平神護(七六五~七六七)のころ、三河國は日照りが續き五穀が實らず飢饉となった。その翌年も不作となり、里人は離散し、土地は荒れるにまかせられ、この地は常荒と呼ばれるようになった。國司は、住民の心が荒ぶことを憂い、氏神・若宮殿の社殿を建立した」旨を記述する。
この三河の旱魃については、『續日本紀』卷二六天平神護元(七六五)年三月乙未(四日)條に載り、その三年前の天平寶字六年にも三河では旱魃があり、『續日本紀』卷二四天平寶字六年(七六二)年三月戊申(二九日)條は、旱魃が起こる理由を、國司が國津神を祀らないための天罰である旨を載せる。
現在牛久保八幡社の祭神は、大雀(仁德)であるが、それは表向きのことで、實際には、地祇を祭神とするのである。牛久保八幡社の社格は鄕社であったが、この社傳では、上を望むことは出來ない。というより、鄕社の社格をよく得られたものだ。神主でもある羽田野も同樣に思っていただろう。
さて、その羽田野は、平田派國學者であったが、國學とは名ばかりで、その核心は儒學にあった。
尊皇攘夷の尊皇は、儒學の尊王斥霸に由來する。「記紀」の記述を読むまでもなく、「記紀」を眺めるだけで、天皇なんていうのは、古代の霸者であることは明白だ。尊王斥霸からいえば、天皇は、尊ぶ存在ではなく、斥けるべき存在なのだ。
加えて置けば、「万世一系」という父系制も儒學によるものである。卑彌呼から臺與への祭祀の繼承、『源氏物語』における妻問婚の形態、江戸時代の商家での優秀な奉公人を婿に迎える婚姻形態、最近若干崩れてきたが、相撲部屋におけるおかみから娘への部屋の継承。このように、このクニ本來の相續の姿は母系であり、「万世一系」は、このクニの相續の形態としては極めて異質なものだ。このことからも天皇はこの国から排除すべき存在といえるのだ。
攘夷という言葉も儒學の華夷秩序から來るものだが、倭は中国の史書の東夷傳等に載ることからもわかるように、華夷秩序では、夷荻なのである。
その夷の倭を、華と勘違いするきっかけは、明からの亡命者・朱舜水(一六〇〇~一六八二)の「日本こそが中華である」との言説にある。
もちろん、朱舜水は、「日本こそが中華である」など本心で思っているはずもない。
クニの成立条件の一つに通貨発行権がある。日本で通貨が發行されるのは、寛永通寶(一六三六年初鑄)からだ。それまでは、永樂通寶などの中国錢が流通していた。アメリカの準州のグアムでは米ドルが通貨として使われている。朱瞬水が來日する四半世紀前まで日本は中国の準州のような存在だったのだ。
暦についても、貞享暦(一六八五年編纂)の採用まで、中国からの借りものであった(明治になり西洋からの借り物に戻る)。
朱舜水が本心で、「日本こそ中華」などというわけがない。
ところがおめでたい輩もいるもので、山鹿素行(一六二二~一六八五)が、本心からいったでもない、朱舜水の「日本こそ中華」の言説を眞に受け、『中朝事實』を著す。
また平田篤胤は、秋田藩の大番組頭・大和田家の四男として生を受ける。この大和田家は、徹底した「尊王斥霸」論者の淺見絅齋(けいさい)(一六五二~一七一二)門下であり、篤胤は玄胤―─依胤―─祚胤と續く朱子學を家業とする家に生まれた。
また幕末のテロリスト養成機關・松下村塾を主宰した吉田矩方(一八三〇~一八五九)は、おめでたい山鹿素行(一六二二~一六八五)の子孫の山鹿素水(?~一八五七)の門人だ。
『日本書紀』卷二(神代下)第九段本文は、「然 彼地多有螢火光神及蠅聲邪神 復有草木咸能言語」と、同段一書第六は、「葦原中國者 磐根 木株 草葉 猶能言語 夜者若熛火而喧響之 晝者如五月蠅而沸騰之」と、『古事記』上卷の葦原中國平定條も「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者 伊多久佐夜藝弖有那理」と、草木までものいう「八百萬の神祭り」の姿を描寫する。この多神教の世界は、『大乘涅槃經』で説かれる「一切衆生悉有佛性」、安然(八四一?~九一五?)が著わした 『斟成私記』の「草木國土悉皆成佛」へと受け繼がれ、謠曲の「鵺(ぬえ)」、「墨染(すみぞめ)櫻(ざくら)」、「芭(ば)蕉(しょう)」、「杜若(かきつばた)」、「六浦(むつら)」、「現在七面(げんざいしちめん)」、「西(さい)行櫻(ぎょざさくら)」、「高砂(たかさご)」、「定(てい)家(か)」などの中の妙文を通じて擴く浸透した。
ところが、幕末の國學は、「八百萬の神祭り」とは、かけ離れた、排他的なものなのである。
その排他性を旨とする國學者の羽田野の目には唐子衣裝をまとった「笹踊」、同じく唐子衣裝で太鼓を叩く「隱れ太鼓」を祭禮出し物とする牛久保の『若葉祭』はどう映っただろう。
『仙境異聞』に書かれた「うなこうじ」と、『若葉祭』の異稱「うなごうじ祭」の「うなごうじ」は關係があるかもしれないといったことを口走っても不思議はない。
唐子衣裝をまとい、太鼓を叩き踊る「隱れ太鼓」が演ぜられる大山車を曳く際には、清樂『九連環』の替え歌を唄った。實は、この『九連環』が補遺三 「隱れ太鼓」考」の「『帝都物語外伝 機関童子』に見る「若葉祭」の「隱れ太鼓」」の項の伏線になっている。
既述のように、私の著作は、独自の視点から独自の展開をしている。そしてこのような伏線を幾重にも張ってある。拾い読みしても、理解は困難であろう。読むなら最初から順に読んで頂きたい。
幕末には遠州灘にも外国船が航行し、否が応でも、倒幕と攘夷が重なり、神主の羽田野は廢佛毀釋へと突き進むのだ。
羽田野の目に『若葉祭』がどう映ったかは想像に難くない。
下記URLは、清樂『九連環』に関する過去の投稿
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Posted by 柴田晴廣 at 06:42│Comments(0)
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