2022年01月05日
『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明2(第一章~第五章)
つぎに第一章から第五章。ここでは、牛久保と、牛久保と呼ばれる以前のトコサブという地名についての考察と、牛久保城主の牧野氏の出自を考察した。
まず牛久保、トコサブという地名の説明の前に、日本列島の地名全體についての話をさせて頂く。
『續(しょく)日(に)本(ほん)紀(き)』卷六和銅六(七一三)年五月癸亥朔甲子(二日)條には、「畿內七道諸國郡 鄕名 著好字」とあり、「延喜式」卷二二民部上に、「凡諸國部内郡里等名 并用二字 必取嘉名」とある。いわゆる「佳字二字令」といわれるものだ。
この「佳字二字令」により、穗(ほ)は寶飫(ほお)と、木(き)は紀伊(きい)と、无耶志(むさし)は武藏(むさし)と、多遲麻(たぢま)は但馬(たぢま)と、漢字二字で表記されるようになる。
そして「佳字二字令」について載せる『續日本紀』卷六和銅六年五月癸亥朔甲子(二日)條は、続けて「其郡內所生 銀 銅 彩色 草 木 禽 獸 魚 蟲等物 具録色目 及土地沃塉 山川原野名號所由 又古老相傳舊聞異事 載于史籍亦宜言上 下令各國撰進風土記之命也 今尚存者 有五風土記 尚 其郡 鄕之名 若有不祥者 改著好字」と、「風土記」撰上の詔の記述を載せる。『古事記』が成立した翌年のことだ。實際、現存する「風土記」には、数々の地名由來譚が載っている。
私は『古事記』は、『日本書紀』のゲラ刷りと考えている。そして『日本書紀』は、史實を記し、後世に殘そうとしたものではなく、「創作」であると考えている。
ところで、北海道庁の所在地・札幌の地名は、アイヌ語の"sari-poro-bet"=その葦原が・広大な・川の"sari-poro"の音に札幌の漢字二字を當てたといわれ、札、幌の漢字の意味に由來する地名ではない。
ここでアイヌ語について説明すれば、言語学的には、抱合語に屬し、ポリネシア語、マレー・インドネシア語、フィリピンのタガログ語、臺灣の先住民の言語が、抱合語に屬する。
アイヌは黒潮に乘ってやって來た、繩文人の末裔と考えられる。そして『萬葉集』には、抱合語の特徴である人称接頭辞などの痕跡が見られる。
一方、その日本語は、韓国・朝鮮語、滿州語、モンゴル語、トルコ語、ハンガリー語などの膠着語と同様の言語だ。
つまり、モンゴル、中国東北部、韓半島を經て、日本列島へと到達したわけで、日本語は、繩文人が話していたアイヌ語に近い言語と、韓半島を經て、日本列島にやって來た人たちの言葉がピジン(pidgin)化したクレオール言語(creole language)といえる。
『日本書紀』創作の目的を考慮すれば、「佳字二字令」とそれと密接に關聯する「風土記」に載る地名由来譚は、先住者の痕跡を消すためのものと推測される。
以上については、「記紀の成立と封印された穂国の実像」(https://tokosabu.dosugoi.net/e1142886.html)の「序」「穗國とは」に記してある。
繰り返しになるが、本書は、全体で一つの論考になっており、前、前の論考を前提として、話を展開している。眞に理解するには、最初から順に読むしかないことを頭に入れておいて頂きたい。
さて、牛久保という名稱であるが、その地名由來譚について、『牛窪密談記』(著者・中神善九郎行忠(?~一七一一/元祿一四(一七〇一)年成立)は、一色城(豊川市牛久保町岸組)主の波多野時政(?~一四九三)を破った、牧野成時(?~一五〇六)が、一色城に入城する際、天王の御手洗金色清水(豊川市中条町大道)の窪溜りに寢ていた牛が起き上がったことから、それを吉兆として、それまでのトコサブの地名を牛窪に改めたと述べている。
この地名由來譚も、「風土記」の地名由來譚の流れにあるといえる。
そして、そのトコサブの地名について、「牛久保八幡社々傳」は、「天平神護(七六五~七六七)のころ、三河國は日照りが續き五穀が實らず飢饉となった。その翌年も不作となり、里人は離散し、土地は荒れるにまかせられ、この地は常荒と呼ばれるようになった。國司は、住民の心が荒ぶことを憂い、氏神・若宮殿(牛久保八幡社の古稱)の社殿を建立した」と常荒の謂れを説いている。常荒は決して佳字とはいえない。
また『牛窪密談記』は、崇神の時代に紀州の牛間戸から、この地にやって來た徐氏古座侍郎が長山の熊野權現は、靈驗あらたかであり、「常に天地長久を護り給う」ゆえ、この地は、常寒と呼ばれるようになったと常寒の由來を説く。常寒も決して佳字といえる漢字ではない。
結論からいえば、トコサブ(tok・o・sap)は、突起物(堆積物等)が、そこで群をなして浜(河岸)へ出る」という意味の繩文語(アイヌ語)に由來すると考えられ、牛久保城跡(豊川市牛久保町城跡)邊りの地名が、この地形にあてはまる。
一方、牛窪は、古い川の流路を意味する繩文語(アイヌ語)"husko・bet・kus"の"husko・bet"に由來すると考えられる。
明應地震(一四九八年)以前の豊川(とよがわ)の流路は古川であった。さらに繩文時代は、現在より温暖で、海面が上昇していた(繩文海進)していた。
JR飯田線の小坂井駅から豊川駅に掛けての飯田線南の段丘崖は繩文時代の水際と考えられ、"husko・bet・kus"は、繩文時代の水際を指していた地名と考えられ、"tok・o・sap"より廣い地域を指す。
このように牧野氏は、この地の古い地形を理解し、把握していたと思われるが、通説では、應永年間(一三九四~一四二八年)に、左大臣田内成清の後胤を稱す田内左衞門尉成富が讚岐から中條鄕牧野(豊川市牧野町)に移り住み、その子の成時が牧野を稱したのを始まりとする。
しかし姓氏家系研究の大家で、『神社を中心としたる寶飯郡史』の編者・太田亮(一八八四~一九五六)氏は、同書で「應永年間の入國としては一族の分布繁延廣大に過ぐ。或は細川讚岐守成之の士にして、成之當國守護となりし縁故より當國に移りしものかとも思はれど、兩者の關係の見るべきものなく、又成之の當國守護となりたるは永享十二年なれば、牧野氏の入國は傳説よりも遲れて一層事實と符號せしむべく説明難し」(同書国書刊行会復刻版五四二頁)と疑問を示し、「牧野氏を本郡の古族と思ひ、その田口氏と云ふは穗國造と同族なる田口臣にして、其の入國は國造時代に溯らざるべからずと考えたり」(同書同頁)と讃岐移住説を否定している。
太田氏がいう「國造時代」とは、『先代舊事本紀』卷一〇「國造本紀」の菟上足尼の時代をいう。
ところが、田口臣については、『新撰姓氏録』第一帙左京皇別上「田口朝臣」の項に「蝙蝠臣 豐御食炊屋姫天皇 謚推古 御世 家於大和國高市郡田口村 仍號田口臣」と、「蝙蝠臣は、推古の時代(五九二~六二八)に大和國高市郡田口村に家す。よりて田口臣と號く」とあり、田口臣と號したのは菟上足尼が穗國造であった時代よりかなり後世のことになる。
牧野氏は、中條鄕牧野の讚岐屋敷から瀬木城(豊川市瀬木町郷中)、一色城(豊川市牛久保町岸組)と南下して來ている。逆に中條鄕牧野から北上すれば、繩文晩期から中世にかけての複合遺跡・麻生田大橋遺跡(豊川市麻生田町大橋)がある。
私は、中世になって、牧野氏は麻生田大橋から南下して牧野に來たと考えている。
現存する砥鹿神社(豊川市一宮町西垣内)の最古の縁起『三河國一宮砥鹿大菩薩御縁起』(天正二(一五七四)年成立)の末には、藤原朝臣草鹿斗利業、同延光の署名があり、延光は、牧野家から砥鹿神社神主・草鹿砥家に養子に入ったという。養子に入ろうが姓は変わらない。藤原朝臣か否かは別として、利業と延光は同族だったと考えられる。
太田氏は、草鹿砥氏について、日下部が日下戸と表記され、クサカドと訓まれ、草鹿砥の字が當てられたという。
『古事記』中卷開化條は、沙本毘古王を日下部連の祖とし、同條の系譜には、沙本毘古王の異母兄弟に讚岐埀根王を載せる。この讚岐埀根王の名から讚岐から移住との過誤記憶が生まれ、やがてそれが共同幻想に昇華したと思われる。
なお、牛久保三社の一つ天王社は、"husko・bet"に牛頭の字が當てられ、牛頭天王を祀る社との誤解が生まれたと考えられ、現在豊川市千歳通四丁目に遷座した天王社は繩文に遡る信仰の地であったと考えられる。
まず牛久保、トコサブという地名の説明の前に、日本列島の地名全體についての話をさせて頂く。
『續(しょく)日(に)本(ほん)紀(き)』卷六和銅六(七一三)年五月癸亥朔甲子(二日)條には、「畿內七道諸國郡 鄕名 著好字」とあり、「延喜式」卷二二民部上に、「凡諸國部内郡里等名 并用二字 必取嘉名」とある。いわゆる「佳字二字令」といわれるものだ。
この「佳字二字令」により、穗(ほ)は寶飫(ほお)と、木(き)は紀伊(きい)と、无耶志(むさし)は武藏(むさし)と、多遲麻(たぢま)は但馬(たぢま)と、漢字二字で表記されるようになる。
そして「佳字二字令」について載せる『續日本紀』卷六和銅六年五月癸亥朔甲子(二日)條は、続けて「其郡內所生 銀 銅 彩色 草 木 禽 獸 魚 蟲等物 具録色目 及土地沃塉 山川原野名號所由 又古老相傳舊聞異事 載于史籍亦宜言上 下令各國撰進風土記之命也 今尚存者 有五風土記 尚 其郡 鄕之名 若有不祥者 改著好字」と、「風土記」撰上の詔の記述を載せる。『古事記』が成立した翌年のことだ。實際、現存する「風土記」には、数々の地名由來譚が載っている。
私は『古事記』は、『日本書紀』のゲラ刷りと考えている。そして『日本書紀』は、史實を記し、後世に殘そうとしたものではなく、「創作」であると考えている。
ところで、北海道庁の所在地・札幌の地名は、アイヌ語の"sari-poro-bet"=その葦原が・広大な・川の"sari-poro"の音に札幌の漢字二字を當てたといわれ、札、幌の漢字の意味に由來する地名ではない。
ここでアイヌ語について説明すれば、言語学的には、抱合語に屬し、ポリネシア語、マレー・インドネシア語、フィリピンのタガログ語、臺灣の先住民の言語が、抱合語に屬する。
アイヌは黒潮に乘ってやって來た、繩文人の末裔と考えられる。そして『萬葉集』には、抱合語の特徴である人称接頭辞などの痕跡が見られる。
一方、その日本語は、韓国・朝鮮語、滿州語、モンゴル語、トルコ語、ハンガリー語などの膠着語と同様の言語だ。
つまり、モンゴル、中国東北部、韓半島を經て、日本列島へと到達したわけで、日本語は、繩文人が話していたアイヌ語に近い言語と、韓半島を經て、日本列島にやって來た人たちの言葉がピジン(pidgin)化したクレオール言語(creole language)といえる。
『日本書紀』創作の目的を考慮すれば、「佳字二字令」とそれと密接に關聯する「風土記」に載る地名由来譚は、先住者の痕跡を消すためのものと推測される。
以上については、「記紀の成立と封印された穂国の実像」(https://tokosabu.dosugoi.net/e1142886.html)の「序」「穗國とは」に記してある。
繰り返しになるが、本書は、全体で一つの論考になっており、前、前の論考を前提として、話を展開している。眞に理解するには、最初から順に読むしかないことを頭に入れておいて頂きたい。
さて、牛久保という名稱であるが、その地名由來譚について、『牛窪密談記』(著者・中神善九郎行忠(?~一七一一/元祿一四(一七〇一)年成立)は、一色城(豊川市牛久保町岸組)主の波多野時政(?~一四九三)を破った、牧野成時(?~一五〇六)が、一色城に入城する際、天王の御手洗金色清水(豊川市中条町大道)の窪溜りに寢ていた牛が起き上がったことから、それを吉兆として、それまでのトコサブの地名を牛窪に改めたと述べている。
この地名由來譚も、「風土記」の地名由來譚の流れにあるといえる。
そして、そのトコサブの地名について、「牛久保八幡社々傳」は、「天平神護(七六五~七六七)のころ、三河國は日照りが續き五穀が實らず飢饉となった。その翌年も不作となり、里人は離散し、土地は荒れるにまかせられ、この地は常荒と呼ばれるようになった。國司は、住民の心が荒ぶことを憂い、氏神・若宮殿(牛久保八幡社の古稱)の社殿を建立した」と常荒の謂れを説いている。常荒は決して佳字とはいえない。
また『牛窪密談記』は、崇神の時代に紀州の牛間戸から、この地にやって來た徐氏古座侍郎が長山の熊野權現は、靈驗あらたかであり、「常に天地長久を護り給う」ゆえ、この地は、常寒と呼ばれるようになったと常寒の由來を説く。常寒も決して佳字といえる漢字ではない。
結論からいえば、トコサブ(tok・o・sap)は、突起物(堆積物等)が、そこで群をなして浜(河岸)へ出る」という意味の繩文語(アイヌ語)に由來すると考えられ、牛久保城跡(豊川市牛久保町城跡)邊りの地名が、この地形にあてはまる。
一方、牛窪は、古い川の流路を意味する繩文語(アイヌ語)"husko・bet・kus"の"husko・bet"に由來すると考えられる。
明應地震(一四九八年)以前の豊川(とよがわ)の流路は古川であった。さらに繩文時代は、現在より温暖で、海面が上昇していた(繩文海進)していた。
JR飯田線の小坂井駅から豊川駅に掛けての飯田線南の段丘崖は繩文時代の水際と考えられ、"husko・bet・kus"は、繩文時代の水際を指していた地名と考えられ、"tok・o・sap"より廣い地域を指す。
このように牧野氏は、この地の古い地形を理解し、把握していたと思われるが、通説では、應永年間(一三九四~一四二八年)に、左大臣田内成清の後胤を稱す田内左衞門尉成富が讚岐から中條鄕牧野(豊川市牧野町)に移り住み、その子の成時が牧野を稱したのを始まりとする。
しかし姓氏家系研究の大家で、『神社を中心としたる寶飯郡史』の編者・太田亮(一八八四~一九五六)氏は、同書で「應永年間の入國としては一族の分布繁延廣大に過ぐ。或は細川讚岐守成之の士にして、成之當國守護となりし縁故より當國に移りしものかとも思はれど、兩者の關係の見るべきものなく、又成之の當國守護となりたるは永享十二年なれば、牧野氏の入國は傳説よりも遲れて一層事實と符號せしむべく説明難し」(同書国書刊行会復刻版五四二頁)と疑問を示し、「牧野氏を本郡の古族と思ひ、その田口氏と云ふは穗國造と同族なる田口臣にして、其の入國は國造時代に溯らざるべからずと考えたり」(同書同頁)と讃岐移住説を否定している。
太田氏がいう「國造時代」とは、『先代舊事本紀』卷一〇「國造本紀」の菟上足尼の時代をいう。
ところが、田口臣については、『新撰姓氏録』第一帙左京皇別上「田口朝臣」の項に「蝙蝠臣 豐御食炊屋姫天皇 謚推古 御世 家於大和國高市郡田口村 仍號田口臣」と、「蝙蝠臣は、推古の時代(五九二~六二八)に大和國高市郡田口村に家す。よりて田口臣と號く」とあり、田口臣と號したのは菟上足尼が穗國造であった時代よりかなり後世のことになる。
牧野氏は、中條鄕牧野の讚岐屋敷から瀬木城(豊川市瀬木町郷中)、一色城(豊川市牛久保町岸組)と南下して來ている。逆に中條鄕牧野から北上すれば、繩文晩期から中世にかけての複合遺跡・麻生田大橋遺跡(豊川市麻生田町大橋)がある。
私は、中世になって、牧野氏は麻生田大橋から南下して牧野に來たと考えている。
現存する砥鹿神社(豊川市一宮町西垣内)の最古の縁起『三河國一宮砥鹿大菩薩御縁起』(天正二(一五七四)年成立)の末には、藤原朝臣草鹿斗利業、同延光の署名があり、延光は、牧野家から砥鹿神社神主・草鹿砥家に養子に入ったという。養子に入ろうが姓は変わらない。藤原朝臣か否かは別として、利業と延光は同族だったと考えられる。
太田氏は、草鹿砥氏について、日下部が日下戸と表記され、クサカドと訓まれ、草鹿砥の字が當てられたという。
『古事記』中卷開化條は、沙本毘古王を日下部連の祖とし、同條の系譜には、沙本毘古王の異母兄弟に讚岐埀根王を載せる。この讚岐埀根王の名から讚岐から移住との過誤記憶が生まれ、やがてそれが共同幻想に昇華したと思われる。
なお、牛久保三社の一つ天王社は、"husko・bet"に牛頭の字が當てられ、牛頭天王を祀る社との誤解が生まれたと考えられ、現在豊川市千歳通四丁目に遷座した天王社は繩文に遡る信仰の地であったと考えられる。
Posted by 柴田晴廣 at 06:24│Comments(0)
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