2022年01月11日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明8(補遺二総論)

 補遺二「豊川流域の特殊神事「笹踊」の考察」は、総論の「豊川流域に分布する「笹踊」の概要」、各論の「豊川流域の各社で奉納される「笹踊」の個別檢討」、参考資料の「各社の「笹踊歌」の歌詞」から構成される。

 ここで「笹踊」について定義すれば、金襴の唐子衣裝にズボン状の下衣を纏って、陣笠樣の笠を冠り、目から下を赤布で隱し、あるいは笠の縁から赤布を埀し隱し、あるいは顔に化粧をし、一人は大振りの太鼓、二人は小振りの太鼓を胸に附け、太鼓を打つ、太鼓踊をいう。
 ところが、愛知県教育委員会発行『愛知の民俗芸能』、サブタイトル「昭和六一~六三年度 愛知県民俗芸能総合調査報告書」の「笹踊り」の項(七九頁)は、「これは三河特有の太鼓ばやしである。(中略)豊川流域では牛頭天王を祀るところが多く、天王を祀る殆どの神社に笹踊りが伝承されている。  笹踊りは大太鼓一人、小太鼓二人の三人が襟元に笹の小枝をさして踊る」といった、伊奈森太郎の『三河の祭』での「若葉祭」の紹介と同じく、講釋師見てきたような嘘をつきレベルの紹介だ。もちろん『愛知の民俗芸能』が記すように、「笹踊りは大太鼓一人、小太鼓二人の三人が襟元に笹の小枝をさして踊る」ものではない。
「笹踊」といっても、笹を持って踊るわけではなく、その発音も、「お」にアクセントが来るわけではなく、平板で発音される。私が提示した「笹踊」は、韓国・朝鮮語で、三人の踊りを意味する"ses saram nori"が訛ったものとの説の補強となる。また三谷祭の「笹踊」(ここでは「くぐり太鼓」と呼ぶが、「くぐり太鼓」も、濱を進むことから下衣を履いていないが、それ以外は、右記「笹踊」の定義に当てはまる)を除き、「笹踊歌」を伴うが、「笹踊」と、「笹踊歌」は、必ずしも一体不可分のものではなく、したがって当然「笹踊」は當振りによるものではない。
 上記のように、県の「笹踊」についての調査報告はお粗末この上ないものであるが、間(ま)宮照(みやてる)子(こ)著『三河の笹踊り』(日本青年館公益事業部編『民俗芸能』(民俗芸能刊行委員会)三三号収録)は、右記「笹踊」の定義に当てはまる十九所で奉納される「笹踊」について言及しており、生(しょう)田(だ)小(こ)平(へい)次(じ)著『東三河に於ける御神事笹踊』(一九三三年九月一五日發行『愛知縣神職會々報』三五六號收録 國學院大學渋谷キャンパス図書館所藏)も、「笹踊」を奉納する十三社を紹介している。
 また広田弘氏が、一九七二年に、『東海日日新聞』(現東日新聞)に連載寄稿していた「東三河の祭り」の幾つかで、「笹踊」を採り上げている。私はこれらの論考を参考に補遺二「豊川流域の特殊神事「笹踊」の考察」を執筆した。
 以上は、いずれも雑誌や新聞に寄稿したものであるが、書籍の体裁で「笹踊」を採り上げているものとして、塚田哲史著『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』(二〇一八年三月三一日発行 春夏秋冬叢書)がある。同署「はじめに」で塚田は、「それは内容的に、以下の拙個人誌"aqua"の補筆訂正版である」(同書(四頁))と、『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』の内容を塚田が発行していた"aqua"の補筆訂正版と位置付けている。二〇〇七年一〇月五日発行の"aqua"四一号に収録された『愛知県豊川市の笹踊り歌』で塚田は、別段詞章のみから「笹踊」を考察したわけでもない鬼頭秀明著「東三河における祭礼風流の諸相―神幸祭と風流」(『愛知県史民俗調査報告6』渥美・東三河(平成一五年)収録)を、「これは詞章からその実態に迫らうとするもので、それ故に、言はば衣装等の形態的な議論を中心とした諸説よりも信ずるに足るものがある」と、評価している。既述のように「笹踊歌」と「笹踊」は、必ずしも一体不可分のものではなく、しかも「笹踊」は當振りによるものではない。ゆえに「笹踊歌」の詞章から「笹踊」の実態に迫れるものではない。塚田自身『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』の右記の「はじめに」の言説に先立ち、「それも主として笹踊り歌とその採譜といふ、極めて主観的、恣意的な観点を通して見ようと志した笹踊りの現状報告である」(四頁)と述べている。詞章のみから「笹踊」を考察したわけでもない鬼頭の論考を「これは詞章からその実態に迫らうとするもので、それ故に、言はば衣装等の形態的な議論を中心とした諸説よりも信ずるに足るものがある」と評する塚田は、「極めて主観的、恣意的な観点」から「笹踊」を騙っているのである。しかも塚田が高く評価する鬼頭の「東三河における祭礼風流の諸相―神幸祭と風流」は論考の体をなしていない。塚田のいう「極めて主観的、恣意的な観点」を、より具体的に推測すれば、羽田野敬雄と同様、「笹踊り」から朝鮮通信使の影響を排除しようとする意図が読み取れる。
 私と同じく大腸がんstage4で、知人の元新潮編集長の前田速夫氏は、『北の白山信仰 もう一つの「海上の道」』の「まえがき」で、「すなわち自説を唱えるのに、都合のよいところだけをつまみ食いして、具合の悪いことには、一切頬被り、根拠すら示さないのでは、まっとうな読者からまっとうに向き合ってもらうのは困難だろう」と述べている(同書二頁)。塚田哲史著『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』は、まさにこの前田氏の言に当てはまる、まっとうな読者が手にする書籍ではないのだ。しかも塚田の採譜の正確性には問題がある。加えて『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』は、文字校正を本当にしたのかと疑うレベルの書籍である。発行した春夏秋冬叢書も問題だ。
 塚田の『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』のほか、倉光設人(一八八七~一九六六)編『三河の笹踊』上・中・下巻(豊橋市中央図書館藏 一九四九年以降に執筆されたと考えられる)も、手書き原稿であるが、上製本の体裁をとっている。しかし塚田の著作と同様に倉光の著作も詞章の本歌の探求などに紙面を費やし、「笹踊」の所作を論じた「本文篇」は中巻にわずか三十頁ほどだ。何度も現地へ足を運び、「笹踊」を実見していることはわかるが、いかんせん論考の体をなしていない。その論考の体をなしていない、「笹踊」の所作を論じた稿は、手書きであることも相俟って、その内容は、生田氏、間宮氏、広田氏の著作の内容と比べ、量も質も遙かに劣る。

 先に引用した愛知県教育委員会発行『愛知の民俗芸能』の「笹踊り」の項は、「豊川流域では牛頭天王を祀るところが多く、天王を祀る殆どの神社に笹踊りが伝承されている」とも記す。確かに豊川流域、より正確には、豊川下流右岸=寶飯郡東南部は、熱田大宮司家と同族の星野氏の東三河進出に伴い、津島から牛頭天王を勸請し、社を建てた天王社の密集地帶である。その密集地域であるから、「天王を祀る殆どの神社に笹踊りが伝承されている」とすれば、十九ヶ所どころの騒ぎではない。しかも、早い時期に「笹踊」を始めた牛久保八幡社、三谷八劔神社の祭神は牛頭天王ではなく、「笹踊」奉納社には、牛頭天王を祭神としない社も多い。であるが、「笹踊」と牛頭天王を結び付けて語る説も後を絶たない。確かに津島天王社(津島市神明町)には、かつて「笹踊」という名の踊りを奉納していた記録はあるが、笠を冠り、唐子衣裝を着てといった、先に定義した「笹踊」に当てはまるものではなく、手踊りの類だ。
 その「笹踊」であるが、一言で「笹踊」といっても、その特徴は樣々である。
 江戸時代、捕虜返還、國交回復等を目的とした慶長一二(一六〇七)年、元和三(一六一七)年の回答兼刷還使を始め、文化八(一八一一)年まで(ただし文化八年の通信使は對馬までで、最後に東海道を往還したのは、その前の明和元(一七六四)年)、將軍就任祝賀等、合わせて十二回の朝鮮通信使が來訪している。「笹踊」に樣々なとした特徴があるのは、通信使に隨伴する樂隊を範にしたものの、來訪時を異にする通信使を觀て、あるいは同じ來訪時の通信使を觀たものの、場所を異にして觀たことから、範とした踊りが異なり、生田氏の言葉を借りれば、「笹踊は東三河に於ける十數社の神社に行はれて居り、而かもそれ等のすべては各異なつて居り、その神社獨特で、全く同じといふのは一つもない」となったのであろう。もちろん、通信使が來訪しなくなってから「笹踊」を始めたところもあるが。
 その「笹踊」の特徴について記せば、たとえば、吉田のように、小太鼓の踊り手が大太鼓の踊り手より前に位置するときのみ、小太鼓の踊り手が對稱の動きをするところもあれば、大木のように、小太鼓の踊り手二人が常に對稱の動きをするところもある。また小坂井や千両のように、小太鼓の踊り手二人が、全く對稱の動きをしないところもある。さらには、御馬や豊川のように、大太鼓の踊り手も小太鼓の踊り手も、腰から下の動きは同じであるが、上半身の動きだけが異なるところもある。
 もっと大雑把に分類すれば、豊川下流部では、體を屈める、膝を折り、腰を落とす、跳躍するといった踊りそのものに重点を置いて工夫を凝らしているのに對し、上流部では、新城で顯著なように太鼓の叩き方に工夫を凝らしている。
 こうした特徴も「笹踊」が、一ヶ所で始められ、周邊に傳播したものではないことの證據になろう。
 また豊川流域は、天龍豊川水系といわれるように、東の遠州や北の南信州と一つの文化圈を形成しており(三遠南信文化圈)、東三河及び遠州の北部と南信州の南部では、花祭、花の舞、雪祭、霜月祭といった霜月神樂が県境を跨いで行われ、それより少し南では、田樂が、さらにその南には、奥三河の放下や跳ね込み、遠州の大念佛といった念佛踊、加えて、藝能ではないが、山間部では、奥三河の鹿射と、遠州のシシウチが、平野部では、砥鹿神社や賀茂神社(豊橋市賀茂町神山)の馬跳びの馬乘神事が遠州の湖西市にも殘っている。また、沿岸部では、渥美半島の田原や遠州の浜松では凧揚げが盛んだ。
 これだけ鄕土藝能、民俗が共通する東三河と遠州にあって、「笹踊」に對應する藝能が、遠州には、存在しない。これも「笹踊」という藝能が自然發生したのではなく、異國の影響からとの傍證となる。
 ところで、奥三河で繼承されている念佛踊の一つ放下も三人の踊り手が、胸に太鼓を附けて踊る太鼓踊である。研究者であれば、当然「笹踊」を考える上で、放下との關係に思いを巡らせるであろう。先に「笹踊」を大雑把に分類すれば、豊川流域下流部では、體を屈める、膝を折り、腰を落とす、跳躍するといった踊りそのものに重點を置いているのに對し、上流部では、太鼓の叩き方に重點を置いている旨記した。この下流部と上流部の特徴が逆であれば、「笹踊」と放下の直接の關係が考えられるが、この大雑把に分けた特徴から、放下から「笹踊」への直接の影響はあり得ない。放下は、體幹を屈めたり、捩じったりと、上流部の「笹踊」より、下流部の「笹踊」との類似性が高いからである。ただ放下は豊川下流域の平野部でも行われており、それが、朝鮮通信使の影響を受けて、「笹踊」として完成したことは大いにあり得ることだ。なにしろ放下にも胸に太鼓を附けた三人の踊り手がいるからだ。
 補遺二「豊川流域の特殊神事「笹踊」の考察」の総論「豊川流域に分布する「笹踊」の概要」では、以上のような點を中心に、「笹踊」を論じた。

 参考までに下記URLは、本稿と関連する本web-logに投稿した過去の論考
https://tokosabu.dosugoi.net/e1127534.html
https://tokosabu.dosugoi.net/e1127567.html



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Posted by 柴田晴廣 at 06:50│Comments(0)牛窪考(増補版)
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